猫背の犬

Open App
2/15/2024, 2:36:40 PM

拝啓 十年前の俺へ

この十年のうちにあの人はかねてより縁談のあった綺麗な方と結婚してしまいました。今度の冬に子供が生まれるそうです。ここまでの文脈でおそらく察しているとは思いますが、あの人を忘れることができない俺はその広すぎる家に今もひとりぼっちで暮らしています。あの人以外の人なんて到底無理ですから、きっとこのまま生涯ひとりで過ごすことになるでしょう。
気を落とさず、下記をしっかり心に留めてください。十年前の俺なら、まだ間に合います。分岐に直面したとき、どうか躊躇わず、心の赴くまま素直に選択をなさってください。
あの人と春になったら一緒に眺めようと約束して庭に埋めた色とりどりのチューリップが咲き誇る頃、あの人が俺に答えを委ねることがあると思います。しかし、俺があの人を想って出した答えは、あの人を幸せにすることはできません。そして俺の出した答えにあの人は悲哀に満ちた表情を浮かべます。そうです。俺は、あの人を深く傷つけてしまったのです。よかれと思ったことは裏目に出ます。正しさだけが正義ではないのです。ですから、教会の父の教えは一度、忘れてください。その首にあるロザリオは本当のことは教えてくれません。望んだ方へは導いてくれません。俺は、あの人のあの顔を思い出にすることすらできなくて、長い間とても苦しむことになります。この手紙を認めている今も傷ついたあの人のあの表情が浮かび、涙があふれてきます。俺は、なぜあの選択を最善だと思ったのかわからないです。今これだけ後悔をしているのだからきっと間違っていたのでしょう。
あの人はご自身の家柄もあってか本当の自分を隠し、また心を殺しながら、とても苦しそうに生きていることを俺はよく知ってますよね。いや、俺だけしか知らないというのが事実です。あの人は他に助けを求めることができません。手を取り、共に逃げ出し、あの人を解放できるのは俺だけです。俺しか居ないんです。
いつの日か俺があの人にあなたにとっての幸せとはなにかと訪ねたときに、あの人が言ってくれたのは紛うことなき俺です。それが俺とあの人を繋ぐ確たるものであることは明白です。決して疑ってはなりません。あの人が一番に想うのは、想ってくれているのは、俺です。これは悪い妄想の類などではありませんし、気が触れているわけではありません。あの人が俺を想う気持ちが、一体どれほど尊いものなのか、幼過ぎた俺は気づくことができなかったのです。ゆえにあの人を傷つけてしまった。俺にとってあの人を傷つけてしまったことは、教会の父に教えてもらったあらゆる罪よりも重い罪に値し、赦されないことだと思っています。あの人の言葉を思い出し、反芻してください。そこに必ず真実があります。それを忘れないでください。絶対に、です。俺は俺自身が信じたいものを信じ、またその幸福を祈るべきなのです。

あとのことは十年前の俺、君に任せます。どうかあの人を幸せにしてください。あの人の手を離してはなりません。今の俺から与えられるヒントは全て与えました。あとは君の心に従うだけです。再三申し上げている通り、他の誰でもない自分自身の心に従うことが重要です。あの人と過ごす未来が君にあることを十年後から祈っています。あの人と今の俺の希望は君だけです。負担をかけることを申し訳なく思いますが、どうかどうか頼みます。

敬具 十年後の俺より

2/14/2024, 1:04:00 PM

「うっわ! それ、めっちゃおもいろやん。ほんで?」
「それ以上のことなんてなんもないよ。通学路にある竹藪にチョコ捨てられて、そんで終わり」
「なあ、ガチなんか? ほんまにガチなんかそれ。あいつ最低やん。顔面バチクソに叩いたろかな」
「いろいろしんどいことになるから、それだけは絶対にやめて」
「とりあえず、捨てられたチョコは俺が見つけたるやん」
「いいよ、やめて。そんなことしなくていい。大体、見つけてどうするの」
「決まってるやん、そんなん。食べ物なんから食うやろ。普通に」
「打ち捨てられたやつ食べるとか不衛生の極みだから。下手しなくてもワンチャン死ぬよ」
「全然平気よ。俺、気にせんもんそういうの。全然食うし」
「危機感どうした? お母さんのお腹の中に忘れてきたん? ……てかもうないから」
「なんで? あるかもしれんやん」
「ない。ないんだよ。回収しようと思って夜中に見に行ったら、なんかゴソゴソ音してスマホのライト向けたら、わけわかんねえくらいでっけえ犬がチョコ貪ってたからもうない」
「……ッ、ふふふふ、ごめ、あははははは!!!」
「は? 笑わないって言ったのになんで笑ってんの? 今日を命日にしたいってこと? いいよ、わかった。今からあんたの頭をそこの鉄バケツで叩いて、花壇に埋める」
「ごめんごめん。ほんまごめん。そんな怒んなて。てかさ、それやったらその犬ごと俺がチョコ食うたるやん」
「なんで? なんでそうなるの? そこまでしてチョコ食べたいなら、もう買いなよ。お金やるから買って食べな」
「いや、それはあかん。バレンタインデーに自分でチョコ買うんはセンシティブすぎるっちゅーのもあるけど、そこはさぁ、お前の作ったやつやないと意味ないんよ」
「そんなの知らないし、別にあんた宛にチョコ作ったわけじゃなんいだけど」
「俺宛ちゃうくても構わへんよ。どんな形でもあっても、お前のチョコ食えるんやったら、俺はめっちゃ幸せやねん」
「なんかさ」
「おん?」
「割とグロいこと言ってんの気づいてる?」


一頻り笑ったあとマックに寄り道して「バッドバレンタイン乾杯!」とかわけわかんない掛け声と共に三角チョコパイを食べた放課後を馬鹿みたいにいつまでも憶えてる。
いつか忘れてしまったとしても、死ぬ間際に思い出す気がする。
おじいちゃんが言ってた。薄れてしまった何気ない日々が、ふわっと色鮮やかに蘇るって。それは人生で最も豊かな時間で、最も大切な記憶らしい。
あいつが今でも自分の隣に居てくれたらよかったけど、そういうのって概ね叶わない。
どうしてこうなってしまったんだろう。たぶん、自分が悪い。
ゆったりした心地良い関係性に永遠なんてない。わかってたはずなのに、甘え続けたから崩壊した。
どれだけ後悔を重ねても、完結を決定として過ぎてしまった結果は覆せない。
いつからか、あいつ今なにしてんのかなって思うことしかできなくなってた。
今はもうあの日に食べた三角チョコパイの味も、あいつの顔も、ぼやけてる。
頭の中に居座ってるくせに、ぼやけるなんて卑怯だろって思いながら、煙草の煙を吐き出す。
夜の闇に燻る煙草の煙は、記憶がぼやけていく様と似ている気がする。
きっとハッピーで溢れているだろう日に、こんなにも切ない気持ちになるなんてさっていう感傷は過ぎていく今日と共に薄れていく。バイバイ、バッドバレンタイン。

11/9/2023, 8:41:53 AM

「意味がないことって言葉をよく使うけどさ、全部に意味がないといけないのかな。いや、責めるつもりじゃない。説教するわけでもないから、むすっとすんなって。んー、なんて言えばいいだろう……素朴な疑問っていうか……俺の中にある話をただ聞いてほしいんだよ。聞いてくれる? 俺、思ったんだ。なんとなく退屈だなーって思っちゃう授業中とか待ち時間に、他愛もない考えごとや誰かに対しての思いを巡らせることは意味がないことではないなって。月日が流れて、そんなふうに思う場面に遭遇することが増えたんだよ。ふと気づくんだ。この感じって、あのぼんやりした時間に胸の中で揺蕩ってたことの答えなのかもしれないって。上手く説明できないけど、そんな感じ。歳を重ねたからこその発見なのか、もしくはこんなふうに気づくための過程として組まれていたのか……どちらも定かではないけれど、意味がないことなんてなかったんだと思う。今に繋がるすべてだったんだって。あー、やっぱり、納得できないか。んー、そうだなぁ……大人になってからふとこの会話を思い出したとき、気づくことがあるかもしれないとしか今は言えない。……まあ、なにも気づけないかもしれないし、そもそも俺を忘れてる可能性もあるけどね。ごめん、聞いてほしいとか偉そうなこと言って、曖昧になっちゃった」





記憶の片隅にある言葉。発してくれた一語一句から温もりを思い出せるのに、彼の顔を思い出せない。彼のことはとてつもなく大切だったような気もするし、そうでもなかったような気もする。よくわからない。彼に関することは僕の中で靄がかかっている。僕がかけた靄なのに、それを払おうとすることを僕が許さない。許してくれない。いつか消えてしまうだろうと思っていたのに、なかなか消えないし、忘れることすらできない。僕の中で得体の知れない彼がずっと息づいている。

僕はいつからか意味のないことという単語を使うのも、思うのも、やめた。それは彼を覚えていることを意味がないことだと肯定することができないから。

例え顔を思い出すことができなくても、意味がないことだとは一蹴できない。得体の知れない彼を忘れないことが、彼のくれた言葉を覚えていることこそが、すべてを失ってしまっても、呼吸を続ける僕の生きる意味なのだと思う。

今この瞬間も呼吸をし、思いを綴っていることを意味がないことだなんて思えない。だって、彼にもう一度会いたいと願う心を諦めることができないから。僕にとっての唯一の、一筋の光なんだ。

青き頃に憧れた彼という若葉にいつまでも思いを馳せながら、余生を過ごしている。きっと、なにか意味があるはずだ。解明できるのは、死ぬ間際なのか、死んだ後なのかわからない。けど、彼にもう一度会うことができるのなら、答え合わせがしたい。

彼の言葉や教えを素直に受け止めれなかったことを謝りたい。本当はあのとき、気づいていた。すべてに意味はあって、中身がなさそうな事柄こそ意味がつまっていることに。

ねえ、██。こんなに遅くなっちゃったけどさ、改めることができたよ。もう遅いかな? だったら、あのときのように説き伏せてくれないかな。そうじゃないと諦めきれなくて、死ぬことすらできないんだよ。もう、素直に言うけどさ、意味のないことなんてなかったたろ?って、██に言ってほしい。あのときに戻れなくても、もう遅くても、来世で上手くやるからさ。約束してほしい。██の顔を見つめながら、██の声で、聞きたいんだ。

もうそんなときは訪れないとしても、そのときをずっと待っている。この真っ白くて無機質な病室の冷たいシーツに包まれながら。

9/24/2023, 9:43:56 AM

ジャングルジムの頂点に辿り着くことができれば王様になることができて、明るい未来が待っていると信じていた。頂点に向かう道中で自分の目的達成のためにとあらゆる人を蹴落とし、やっとの思いで辿り着いた頂点は思い描いていたものは全く別物で、見渡す限り鈍色の景色からはとくに感動を得ることはできなかった。ジャングルジムの下で転がっているのは、かつて人だったもの。自分が蹴落とした者の残骸が山積みになっている。その山から一体ずつ蟻たち引き抜き、巣へと運び出している様子も伺えた。背中のネジが壊れてしまっているからかつてのようには動けないだろうし、蟻の捕食物になる運命しか残されていない。自分を恨むだろうか。コンティニュー機能が使えたら真っ先に殺しに来るのだろうか。不穏な連想を巡らせながら、ふと自分の手を見ると赤黒い血で染まっていた。憧れていた王様はこんなにも醜い淀みを背負いながら、ここに立っていたのか。ともすれば、下から見上げたときに王様の持つものすべてがきらきらと輝く宝石に見えていたのは一体なんだったのか。今思えば、それは王様だけが使える狡猾な魔法によって魅せられた幻だったのかもしれない。かつての王様から奪ったこの杖で、自分が憧れた王様と同じように魔法使って夢を魅せてあげなければ。とっておきの明るい未来を。

9/22/2023, 9:36:41 AM

秋の夕日を見て真っ先に思い出すのは、茜色の中に向かっていく彼の背中。茜色に彼が取り込まれるのは一瞬のことだった。「待って!」と叫ぶ僕の声も、彼のワイシャツを掴みかけた僕の指先も、彼を繋ぎ止めるには力不足だった。
「これは悪い夢で目が醒めれば、すべて元通りになっている」
これを呪詛のように繰り返す僕を両親は気に病み、息子は親友を亡くして気が触れてしまったんだと嘆いていた。父さん、母さん、よく聞いて。僕は狂ってなんかいないよ。それから彼は親友なんかじゃない。そんなどこにでも転がってるような安い言葉で僕と彼の関係性を表さないでほしい。

物理的ではないとしても言動で彼に触れることを許せない。彼は僕のものだ。僕だけのものだ。うるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。誰にも彼の話を聞いて欲しくないし、誰からも彼の話を説かれたくない。彼にまつわるすべてのことは僕だけのもので、その記憶は僕の中だけに在ればいい。そして彼との記憶に他者が紛れ込むことは絶対にあってはならない。だから黙って。黙れよ。黙れ。彼の名前すら口にするな。

彼や彼の記憶を守りながらなんとか生きていくつもりでいたけど、限界かもしれない。彼の居ない日常で息をすることが苦痛だ。取り戻したかった。彼の居る日常を。ないものをねだるだけの日々は過ぎ、歳を幾つも重ね、彼が居ないという事実だけが色濃く刻まれていく。僕の人生は仄暗さだけがどこまでも続いている。なにをどうしたってまばゆい光が差し込むことはない。ところが今、眼前には茜色の光が広がっている。優しく柔らかな光。すべてを許しくれるような、愚行と共に汚れを浄化してくれるような、温もりのある光。今なら彼に会えるような気がする。あの日の彼と同じようにこの茜色に呑み込まれてしまおうか。茜色の先にはなにがあるのか。想像を絶する安らぎか、はたまた何も感じることができない永遠の無か。そもそも彼は何を求めて茜色に呑まれたのだろう。茜色に呑まれ、運良く彼の元に辿り着けたとして、彼が別の誰かと手を繋いで居たら僕は彼を殺さなければならない。それが怖くて今の今まで悲劇のヒロインを気取って居たのではないだろうか。だけど、思う。いや、やっと気づいた。本当に欲しいならどんな手を使ってでも手に入れなければいけないということに。つまり、いつまでも二の足を踏んでは居られないってこと。

ねえ、そこに居るんでしょ?
どうして僕を置いて行ったの?
どうしてそっちに行くことを選んだの?
僕のせい?
僕が君を好きだと言ったから、君は居なくなったの?

ごめん。でもやっぱり僕は君が好きなんだ。どうしようもなかったし、どうしようもできなかった。気づいたら君に縋ってた。そんな僕を受け入れてくれた君は僕と同じ気持ちだとばかり思って、そう信じて疑わなかった。いいや、違うな。僕は自分にとって都合の良い解釈をしていただけなのかもしれない。ああ、そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。君はとても優しい人だから強い拒絶を見せなかっただけ。僕らはふたりとも同じ。見てみぬふりをしていた。僕は何もわかってなかった。君はすべてをわかっていた。全部、全部全部全部、僕の独りよがりだったんだ。だけど、ひとつだけ怪訝に思うことがある。どうしてあのとき君は僕の唇に自分の唇を這わせたの?

僕は知ってる。僕が眠ってるって勘違いした君が、秘密の賭けをしていたことを。君が自分の唇に毒を塗って僕の唇に重ねたこと。本当は全部わかってたんだ。この茜色が群青に変わる前に僕はあの日の君を追いかけることにするよ。だって、秋を過ぎたらもう会えなくなっちゃうから。ベッドに身体を預けるようにして茜色へとなだれていく。ゆったりとした角度で移ろいでいく情景。

——「待って」

誰かの声がした。僕を引き止めるような声。その声を辿って視線を這わせても延々と茜色が広がっているだけで、なにもわからなかった。きっとたぶん気のせいだ。僕を呼び止める人なんて君以外居るはずがないから。

Next