時を告げる
化物として数千年の命が約束された私は、時間の概念などとうに手放していた。
当然、まともに生活していける条件は何も揃っていないため、こぎたない姿で街を彷徨っていたところを物好きな人間に拾われて、このだだっ広い館で働かせてもらっているのだ。
23時30分。膨大な部屋の掃除を終え、ついに最後の部屋、主人の部屋のドアの前でノックをした。
主はとうの昔にいなくなったというのに、叩き込まれた所作は抜けない。
失礼いたします、と入室し、部屋の明かりを付ける。
目の前には大きなウォルナットの机。見慣れた光景である。
しかし、今日はやけに部屋の明かりが目に刺さる気がして、消した。その代わり、古くはあるが大切に使われていたであろう、テーブルランプの紐を引く。
ぽっと暖色の灯りに照らされた机上には、私の未練が転がっている。主人が消えてから少しずつ片付けてはいたものの、いつまでも仕舞えないもの。
そう、主人の懐中時計である。
私は懐かしい懐中時計を手に取った。しばらく時間を忘れて、まじまじと観察しながら主人がいた頃の回想に耽った。
繊細な銀色の小さな鎖が、橙色のランプに照らされて鈍く光る。
そろそろ磨かなければ。と席を立った時、かちりと鳴る時計。
まさか、動くはずがない。とうの昔に止まっているはずだ。何より主人はもう、数百年は帰ってきていない上に、止まったまま修理をした覚えもない。それが動く?
針は0時を指している。そして、悠久の時を生きる私は思い出した。
今日は主人が消えた日、命日であった。
些細なことでも
所作ひとつひとつまで厳しく躾けられた私は
重大なことを見落としていた。
目に見えないことは決して信じてはいけないと
常々、幾度も教えられた私は
あなたの発した殆どを、残酷に流した。
様子も、仕草も、言葉にならないものは
無いのと同じだと信じて疑わなかった
とんだ勘違いだった
あなたの言葉が耳に入った
あなたは一切の他意なく
目に見えない世界のことを口にした
私は愚かにも憤った
こんなに地を踏んで生きる私に、非現実的なことを言い放ったと
どこまでも被害者を貫いた
ある日あなたは強くなった
誰よりも強くなったはずなのに
次の日にはいなくなった
手紙になったあなたに教わったのは
私の人格がいかに乏しかったかということ
小さな、小さなメッセージを
払いのけたこと
それがあなたを追い詰めたこと
取り返しのつかないことをしたこと
育ちと向き合わなかったこと
ごめんなさいじゃ済まされない過ちを
そちらの都合でいいから
一度でいいから詰りに来て。
突然の君の訪問。
烏滸がましくも予感がした。
君はきっとこの部屋を
最後の砦だと思っている。
インターホンさえ
今となってはいらない。
躊躇なくサムターンを回す。
ずる、と崩れる見慣れた人影を
壁を背に受け止める。
静寂に包まれた玄関で
少し痩せた君を包む
生きていてほしい、と思った。
反射的に口が開いた。
「寝よう、いっしょに」
「うん」
小さな返事と同時に、伏せられていた君の目が開く
その痛みと、幸福が混在した眼差しが
安心に変わるまで
ここで守らせて。
雨に佇む
傘を捨てた。
通りがかった車から放たれた泥水のシャワーを浴びて、世界に失望したから。
濡れた靴下が不愉快で、舌打ちをしかけて、やめた。
数時間後の自分に、態度を諭されるのは癪だから。
滝行だと思って、徳でも積むかと思い立った。
無意識に特大のため息をついて、私はダラダラと歩いた。
重くなった服と、水滴で見えない眼鏡に苛立つ。
急ぐ気力も消えて、ついに立ち止まった。
ふと目の前に、錆びた橋が目に留まった。
そうだ、いっそ濁流でも眺めていれば、何かが変わるかもしれない。
私は水溜まりを踏みつけ、橋の真ん中で茶色くなった川を見下ろした。
「ねえ、ダメだよ」
突如聞こえた焦りに満ちた声。
誰?
否、あまりにも、知っている。
確かに数年前に消えた、あの子だった。
私の日記帳
文字になった記憶と
なぜか薄れていく声に
紙上で再会する
一緒に夜から逃げよう
そして一緒に朝を見に行こう
またあの時みたいに
散歩をして、時間と四季を半分こしよう
世界は変わっていくから。
私一人では、置いていかれてしまうだろうから。