寂しい…って、いう気持ちは、人間の根底に敷石みたいにあるものだと思う。どんなに頑張っても動かす事はできない。
最終的には、寂しい…って、気持ちに向き合わなければならないからだと思う。
若い頃は、若さの勢いで友達やら楽しい事やらで、見てみぬふりもできるけど、ある年齢になると途端にそれが見過ごせなくなってくる。結婚して、子育てしている最中は、チラッと寂しい…が出てくるけど、なんやかんやで忘れてしまう。
わたしは、子育てがだいたい終わって、さぁ、自分の時間が持てるとなってきた時、介護問題にぶちあたった。
あの頃はあんな事もこんな事もできたのに、ひとつずつできなくなってくる母を見て、寂しい…どころではなかった。
今は母は、もっと寂しい…気持ちで施設のベッドに横たわっている。嫌な事があっても気分転換すらできない。
そう思うと、
わたしの方がずっとマシ。
まだ目も見えるし、車の運転も出来るようになった。どこへでも行って、気分転換できる。
一生懸命働いて、女でひとつで娘を育てて、枯れ木のように細くなった母は、好きなものも食べられず、ただじっと、わたしの面会を待っている。
ほぼ寝たきりになっても、頭だけは冴えていて、いつ面会へ行っても政治や国際情勢やスポーツなど、世の中の動きを知っている。
母も世の中の一部である。
政治家や大きな会社で働いている人だけが、世の中を動かしているわけではない。
母は世の中を動かしている。
お世話してくれる職員さんたちに、
「ありがとう」と声をかける。
職員さんたちは、気持ちよく働いてくださる。
職員さんたちから、「お母さんにね、いつも励まされているんですよ」と、言われる。
寂しい…という気持ちを抱えながら、母はいつもいつも世の中を大きく動かしているんだと思う。
そういう事は何ひとつ、本人は気づいてないけど。
政治家が頑張るからどうのこうのなるんじゃない、末端のわたしが今日も元気に働いて、明るく同僚と話し、お客様と接し、家では料理を作り洗濯物を畳み、明日の準備をする。
わたしは世の中を動かしている。
寂しい気持ちに負けたら、世の中を止める犯罪者になってしまう、だから負けない。
∴さびしい=あいしている
2011年に鬱と診断されて、というよりもっと前から何かおかしくなっていたけれど、仲の良いママ友に精神科受診した方がいいと言われて、受診したら診断がついた。
鬱って、いい大人が恥ずかしい。
家族にも精神科受診したことを、最初は言わなかった。
だいたい鬱になって、10年後がまた危ないということで、2011〜2015年くらいが辛かったから、ちょうど今年が鬱の最終の年になる。
考えてみると、2021から始まってこの5年は危ない年だった。
鬱って、今日嫌な事を言われたから明日なるって事ではなくて、忘れた頃に何かのキッカケで嫌なコトバを思い出し、嫌な出来事を思い出して、忘れようとしても毎日毎日どんどん思い出してしまって、何年かの思い出しの蓄積の結果、そういうことになったりする。
【自分の責任】と【許せない】、が、せめぎあい、矛盾して、混沌として、実生活が困難になっていく。常に頭から離れなくなって、憎しみと、憎しみの前には必ず愛情があるから、そうなるとやっかいだ。
会社で仕事で嫌な上司や部下、会社そのものなどにハラスメントを受けるのも耐えられないけれど、実際の相手、対象がいればまだ少しはまし。選択の余地がまだあるから。
ぶつける相手はもう居ない、自分で自問自答を何年も繰り返す羽目になったのは、結局自分だという泥沼は、なかなかそこから抜けきる事はできやしない。
そうなると他人の手が必要になってくる。
だけど、その他人の目や言葉尻に不信感を抱くとまた厄介で、それも自分を責める事になる。
思うに、わたしはそういう苦しむ状態が何年も必要な人間だったのだと思う。
今年もあと僅かだ。
あともう少しで、節目の年が明ける。
自分の心の縁を、慎重になぞってここまで来た。
今まで生きてきた半分の時間をそこに割いてしまったけど、その中に、【そうか!】と分かった事もある。
きっと、人生のうちで分かる事など、ほんの少しに違いない。それを掴めただけでも、良かったのだと思う。
この間、ネットの書き込みで、【これが、ケセランパサランです、白粉ふりかけて大きくなってます】というのを見た。
諸説あるようだけれど、信じる事は幸せな事だと思う。
【信じる】ということ、それそのものが透明な羽根で、危うい。
自分の思い通りにならなかった時、【裏切られた】と思ったりするけど、信じたのは自分なのだから、【裏切られた】と騒ぐのは間違えている。
風が吹けば、右に左にふわふわするようなそんな軽い信じ方では、【幸せ】にはなれない。
信じているのは自分だ、という確固たる信念を持つことが出来れば、笑われても嘲られてもバカにされても見下されてもなめられても、その人は何も気にせず、【幸せ】に守られて他者の【幸せ】も守って生きていく。
信じるのは、信じたのは、自分だと責任を持つから、何一つ誰かのせいにしたり、親のせいにしたり、生まれのせいにしたりしない、世の中のせいにしたりなどしない。
透明な羽根なんか要らない。
生まれてきて、自我を掴んだ時点で、そこからは自分の責任なんだから、足の裏を大地に着けて生きていく。
今日は、昨日とは違う同僚に、「今朝、うちの駐車場の柿の木に熊が登っていて柿食ってたんですよ!」と、話しかけられて、
「その柿の木、100個以上柿がとれるんだけど、2つしか柿が残ってなかった!昨日は、たわわに柿がなっていたのに…」
「私の事見て木からスルスルと下りてきて、立ち上がったら、腹がパンパンに膨れてたー!」
その同僚は、山も持っていて、毎年800近く柿が実るんだけど、今年は20個しか残ってなかった、と…………
600個干し柿を作る予定が、20個なんて……と、嘆いていた。
山には2メートル近い幅の熊の道が出来ていて、罠をしかけた、という事だった。とにかく、立ち入り禁止になってしまって、罠に熊がかかったら家から出られないし、見に行くことも禁止されているという事だった。山だから、たぶん、処分はその場でズドンじゃないか………、と。
わたしも今朝、ゴミを捨てようとゴミ置き場に向かったところ、カーブミラーに黒いものが映っていて、『熊か!』と思ったらカラスだった。
騒ぎが大きくなるばかりで……、
地元はピリピリしてる。
とにかく、周囲に迷惑かけないようにゴミは外へ出さない、指定時間のギリギリに捨てに行く、回覧板を回す時もなるべく車で移動する、など。みんな、考えられる事は、精一杯対策している。
この冬、
お腹を空かせた熊は、どうなるんだろう。
今日は同僚から、「今朝雪虫見たよ」と。
「まじでーー!」けっこう町中ではないか、、
例年だと、山では11月中旬頃に雪虫舞って、下旬にはみぞれっぽいのが降ってきて、12月第一週には初雪、という流れなのに、町中で雪虫とは気が早い。
別の同僚が、「今朝、猿がうちの玄関先にウンチしてった!」
わざわざ玄関に?
うちの駐車場にもコロンとある時がある。
ワイパーの、何が面白いんだか……遊ばれて折られたりするから、秋からのフロントカバーは必須です。夏は大丈夫。ボンネットフライパンだし、お尻が焼けちゃうよね。
で、
何かが出た、という話しはどこでもよくする。だけど、【変質者が出たよ】とは、こっちに来てから一度も聞いたことも、話したことも無い。
昨日、夫に、「23区のどこかにイノシシが出たみたいよ」と、言うと、「どこに?」と聞き返されたけど、どこだったか………答えられなかった。答えられなかったけど、
「もののけたちがお怒りです」と、言ったら、クフン♪と、笑ってくれて、
少しくすぐったかった。
冬支度は、あと、タイヤ交換するだけです。