息子が自分のことを言う時、幼稚園にあがる前までは自分の名前だった。幼稚園に入ってから友達に、「じぶんのことはオレっていうんだよ」と、言われたらしく、びっくりしていた。「オレ」と言うのはお父さんだけだと思ってたらしい。。
小学校に上がると、先生から自分のことは、『ボク』と言うようにと言われたらしい。なんでなのかと聞かれたので、年上の人に対して『俺』と言ったらダメだから、と答えた。息子はそれ以上聞いてこ来ず。『なんでダメなの?』と、食い下がってくる子ではなかった。
社会人になってから、『わたし』と言うようになったと思うけど、本人から聞いた事はない。
「僕、」と言うと、小さい子をイメージする。それか、あのちゃん。
『僕と一緒に遊ぼうよ』
今日は、新月だ。新月の事を朔ともいう。なんだか今日の新月は特別なようなので、あれこれ考えずに静かに過ごそうと思う。
cloudyといえば、吉川晃司のCDアルバムCloudyHeart。たまに聴きたくなる。
新月は役割を終えた人間関係をリセットしたり手放したりするキッカケらしい。
このCDアルバムはわたしの心をザラつかせたり苛立たせたり、嫌な事を思い出させたりはしない。
心があったかくなるものはいつまでも大事にしていいと思う。
橋って、あの世とこの世を繋いでいる危うい場所みたいです。
虹の架け橋って、ペットが死んだ時に、『虹の橋を渡りました』というけど、あれのことかしらん。。
わたしはハムスターを4回飼った事があって、3匹目のハムスターは、指を出すとペロっと舐めてくれる優しいコだった。
動物に名前を付けると、動物もただの動物じゃなくなるのね。【自分】ってものになれるんだと思う。名前を呼んであげる事によって、人間の愛を知って【自分っていうカタチ】になれるんだと思う。死んでからもしばらくは【そのカタチ】を保ってるんだと思う。
【自分が死んだ】って分かるのは、人間に名前を付けてもらったからだと思う。普通の動物は、生きるのも死ぬのも一緒の世界だから。
でも、名前を付けてもらっても人間と違って、残念ながら長くは【自分のカタチ】を保ち続ける事ができそうにない。
だから、出来るだけ早く忘れてあげる方が良いようです。あまり人間が思い出し過ぎると、還る場所へ還る事が出来なくなって、段々【自分】が分からなくなってしまうから。そうなったら悲惨だから。
ペットが亡くなった時の、虹の橋を渡るって考え方は素晴らしいと思う。
悲しくて思い出してしまったら、『この世での役目を終えて、虹の橋を渡ったんだね』って、心の中でつぶやいてあげれば、そのコはもう単なる動物ではない。役目を終えた永遠の魂になれるんだと、思う。
既読は付いているけど、
亡くなった知人のLINEはなんだか消せない。引っ越しして一年後、落ち着いたので久しぶりに暑中見舞いを送ったら、たぶん旦那さんからだと思う喪中はがきが届いた。前年には年賀状をもらっていたから、あっという間に亡くなった事になる。
その人はブログ開設していたので、まだあるかと思い、見に行った。趣味に関するブログだったのに、闘病の記録になっていた。今は他人事とは思えない。
この間近所の奥さんが、雑木林で栗拾いしてくれて、頂いた栗をさっき茹でてみた。
ホクホクの栗はほんのり甘かった。
最近の野菜も果物も、何でも甘さ増し増しで、それは不自然なことなのに気づく人はあまりにも少ない。砂糖を足す、っていうのはあまりにも不自然過ぎる。
本来の甘みは、口に入れて咀嚼しているうちに甘みを感じる、その程度のもの。
(スポーツ飲料の甘さは、もう論外。身体で作ることが出来ない栄養素なら身体に入れない方が絶対にいい)
ホクホクの栗の香りは、呼吸とともに鼻から抜けて台所に広がった。鍋から上がった湯気と一緒になって、またそれを吸い込んだ。
鼻から空気や香りを吸い込む、というけれど、本当はそれだけじゃない。そこらに浮遊しているご先祖様や、わたしの周りに寄ってきている霊なども一緒に吸い込んでいる。わたしのオーラと、同じ光量の霊たちだ。
わたしの鼻から入って、一緒に栗を味わって、わたしの鼻から出ていく。呼吸するたびに、わたしの中に霊が入ったり出たりしている。それを感じることは、わたしには出来ないけれど、
秋の色も鼻から吸って、脳にぶちあたって、『秋だなぁ』と感じる。というより、知らせてもらえる。そして、目で気づく。
____人間は視覚に頼りすぎてる。