月森

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3/21/2023, 3:56:42 AM

 今思えば、私は長い夢を見ていたのかも知れない。君は、死のうとした私が見た夢なのではないか。死にきれなかった私が恋をしたのは、自身が作り出した幻想だったのではないか、なんて。
 私はすっかり忘れていた。現実というのが、息をしている限り終わらない悪夢であることを。この夢が醒める前に、さて人間は、どれだけの絶望を味わうことになるのだろう。

 まっすぐ家に帰る気になれなかった私は、ただ行く宛もなく夜道を歩いていた。いつもは通らない川沿いの道には、人の気配がまるでない。これは都合が良い。曇天と涙比べをして、完勝してしまったところだ。大の大人が迷子の子どものようにメソメソ泣いている姿は、他人に見られて気持ちの良いものではない。
 ふと、空を見上げると、屯していた雲はいつの間にかどこかへ姿を消し、まったく素晴らしい満月が私を見下ろしていた。すると私はいつも、かの文豪が超訳した言葉が脳裏に浮かぶ。

「月が綺麗ですね」

 心臓が止まるかと思った。誰もいないと思っていたところで急に聞こえた声に、驚いて涙が引っ込んだ。振り向くと、今通り過ぎたばかりの橋の下に、ひとりの男がいた。月明かりが届きすぎて、私の酷い顔は丸見えだろうが、それでも私は軽く袖で目元を拭い、何事もないように返事をした。

「…立派な満月ですね」
「ええ、まったく」
 橋の陰から現れた男は、まるでタイムスリップでもしてきた過去の人だった。書生のような装いに、大きな丸眼鏡。短くも長くもない黒髪が、寝癖なのか天パなのかところどころ跳ねて、年齢を不思議と隠していた。
「お兄さんはこんなところで何を?」
「お兄さんだなんて、嫌だな。そんな歳じゃあないですよ」
 右手を後頭部に添えながら、男ははにかむように笑った。
「今日は月が綺麗だったので、お月見をしていたんです」
「風情がありますね」
 時間に追われて空を見上げることすら忘れた現代人からは、とてもかけ離れていた。
「そういう、あなたは何を?」
「…出掛けた帰り道です」
 初対面の人間に警戒しつつも、嘘を吐く理由もないので、私は正直に話した。
「女性の夜のひとり歩きは危ないですよ。近頃は物騒ですから」
「そうですね。気を付けます」
 では、と私が会話を切りあげようとすると、男が続けた。

「もし、あなた、何か困りごとはありませんか?」
 ずいぶん唐突だ。
「…いえ、特に」
「先程、泣いておられたでしょう?」
 そこはスルーしてよと思った。
「何か心に抱えているものがあるなら、わたしに話してみませんか?初対面なのに?と思われるかもしれませんが、だからこそです。知らないからこそ、話せることもあるでしょう?」
 私はジトッと男を見た。
「守秘義務はもちろん守りますよ。名前も何も明かさなくていいです。ただ、あなたが話したいことを話したいように話してくれれば」
「お兄さんは、どうしてそんな慈善活動をしてるんですか?」
 怪しさ満点じゃないか。
「はは、慈善活動などではないですよ。わたしはね、作家なんです。人の苦労話を聞くと物語が閃く質の。だから、ね?人助けだと思って。締切がもう目の前なんです…!」
 色々疑問はあったが、懇願する男の様子に私はいとも容易く押し負けた。この先、自分が生きていても誰の役にも立てないであろうという虚しい確信をいくらか薄めるために、私は目の前の男を利用することにしたのだ。

3/19/2023, 4:07:56 AM

 学校で色々あって人間不信に陥った俺は、不登校になった。そんな俺に毎日のようにLINEをしてくる幼馴染みがいる。今は大して親しくもないアイツは、学級委員で、先生のお気に入りで、人気者で、成績も良くて、運動も出来て…とにかく俺とは真逆の人間だ。そんなやつが俺をかまうのは、きっと先生にでも頼まれたか、持ち前の善心のためだろう。俺はそれをずっと無視していた。

 LINEを無視し続けて数カ月が経ったある日、いつもの時間にLINEが来なかった。ようやく諦めたのかとホッとしたのも束の間、家族からアイツが死んだと知らされた。
 葬儀で棺の中のアイツを見ても、意味が分からなかった。どうして、アイツが?両親が離婚して家庭環境が最悪の中でも必死に勉強して、部活も委員会もボランティアも頑張って、友人も恋人も将来の夢もあって、絵に描いたような真っ当な人間だったアイツが、なんで…

 しばらく前から白血病だったらしい。そんなこと一言も俺に言わなかった。言ってくれていたら、なんて言い訳は卑怯か。多分アイツは同情で俺の行動を強制するのが嫌だったんだろう。どこまで善人なんだ。使える手段はなんだって使えよ。

 世界が不条理に満ちていることは知っていたが、アイツの墓石の前で手を合わせた時、つくづく実感した。俺みたいなクズが生きていて、アイツみたいな未来ある人間が救われない世界が、正しいわけがない。神様なんていなかった。
 そして、俺は誓った。もうこんな思いしてたまるかと。この人間不信は、一朝一夕で治るものではない。しかし、それでも、俺のために少しでも心を砕こうという人間がいたなら、邪険に扱うのはもうやめる。人が今生きていられるのは奇跡なんだ。皆いつ死ぬか分からない。言葉を交わせるのは生きているうちだけだ。「ごめん」も「ありがとう」も、土の下に潜ってしまったら、永遠に届かない。

3/18/2023, 12:16:28 AM

 君はもう、泣いたりしないわ。私がいなくなっても。君はずっと強くなったし、何より私よりずっと優しく支えてくれる人ができた。君に私はもう、必要ない。
 
そんな風に考えてしまうのって、私が勝手に君を生きる理由にしていたせいね。私という風船が、彼岸の空に飛んでいってしまわないための、重しにしていたの、ごめんなさい。そして、今までそれでいてくれて、ありがとう。君はそんなこと、気付いてもいないのだろうけど。

 気付いていないといえば、私本当は小説家になりたいわけじゃないの。高校の時の“将来の夢”なんて作文で、なりたいものがなくて適当に書いた夢を、君はずっと信じてくれていたのね。確かに、文章を書くことは好き。でも、仕事に出来るほどじゃあないの。それにね、私、君って読者がひとりいてくれたら、満足だったのよ。いつも君のための物語を書いてた。結婚式のスピーチ。あれが私の最期の作品よ。推敲を重ねてようやく完成した、君を泣かせるための物語。君のために生きていた私のことは、どうか忘れないでね。

3/16/2023, 10:48:17 PM

 遮断機の下りた踏切が、私の人生のゴールになることは、残念ながらなかった。電車が通過している間、内から込み上げてくる何かに必死に耐えながら、ただ身体を強張らせただけの自分が、ひどく情けない。
 こうして、あの日マグカップごと殺しきれなかった恋心を己ごと抹消する計画も、生粋の怖がりのせいで失敗に終わった。

 私の胸の内の恋慕が、ドス黒く醜い呪いになりかけている。これを一体いつまで、君の前で隠していられるだろうか。君の幸せを願っていたはずなのに、君の穏やかな笑顔を見ると、今は苦しくてたまらない。君にそれをさせるのも、君がそれを向けるのも、私ではないという事実が、積み上げてきた10年を一瞬で塵にしたように思えた。こんな風に考えてしまう私の浅はかさを君が知ったら、きっともう私たちは友人でいられない。私は、それがとても怖かった。

3/16/2023, 9:25:17 AM

「死んだら人は星になるなんていうけれど、厳密には違うのよ。確かに人は星になるわ。でもね、それは現世にほっておけないとか忘れられない相手がいる人だけなの。見守り続けるために、星になるのよ。それでね、星になった人は一度だけ他人の願いを叶えられるの。自分の存在を燃や尽くして消えるのと引き換えにね」

「だから、きっと私、死んだら星になるわ」

 カーテンを締め忘れた窓から覗く夜空は、とても澄んでいて、まるで星が溢れるようだった。いつかの冬の寒い日に、夜の公園でふたりで泣きながら見上げた空と、その時の君の言葉をふと思い出した。

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