【逃れられない呪縛】
覚えちまった、アンタの甘ったるい香水の匂い。
ふとそんな事をアンタの髪を撫でながら呟いてしまった自分が、女々しく思えて嫌になる。
これが最後と思いつつも未だ離れ難いのは、あくまでもこの何処か懐かしい匂いのせいであって、決して愛しているからではない。そう思い込もうと無理矢理打ち消した。
「嬉しい。会えなくなっても、この香りがある限り……何処かでこの香りが漂う度、私を思い出してくれるんでしょう?」
嬉しいと言いながら泣き笑いのような、諦めにも似た表情だった。
『思い出す』とは、一度は忘れる事の証の言葉だからだろうか。
「さあな。そんな高価な香水身に着けてる奴に、そうそう行き合う事も無いだろうよ」
「成る程……きっとそうして、私は貴方に忘れ去られてゆくのかも知れない」
馬鹿な女だ。忘れず思い続けるなら『思い出す』必要など何処にある、という単純な話なのだが。
アンタの香りが、俺を縛る。
自分から離れておきながら、今でも呪いのようにアンタの気配をずっと探している。
【理想のあなた】
俺は相手に変な幻想を抱き、理想を求め期待する事は止めたんだ。
そう言った時、貴女は怯えた表情をして「私に興味なくなった?」と消え入りそうな声で問うた。
何で貴女がそんな事を言ったのか、一瞬判らなかったけれど……
考えてみると、貴女は相手の期待や理想に応え喜んでもらう事を尊ぶ人だった。相手が理想を求めてくるのも、相手の求めに応えようと思えるのも愛あればこそだと考えている節もある。だが応えようとするあまりに無理をした結果、心が押し潰されてしまう貴女も何度か見てきた。
だから貴女は、俺に失望され捨てられるかも知れないと思ったのかと理解した。
そんな貴女に「期待しない」と言ってしまったのは明らかに失言だった。
まだ不安気に俺を見詰める貴女を安心させる為に、髪を撫でる。
「違うよ。理想とか期待とか関係ない。今、目の前にいる貴女と俺は生きていきたいんだ」
俺にとって相手に期待しない事は興味がなくなったとか失望の意味ではなく、例え不完全だろうと今の貴女を丸ごと受け容れるという自分なりの覚悟なのだ。
理想の貴女を作り上げ、求める必要はない。
【突然の別れ】
私に背を向け煙草を吸う彼をぼんやり眺めるのが好きだった。けれど、今夜はいつもより彼が遠く感じるのは何故だろう。薄っすらとした不安が胸に広がっていくのを感じて、何だか怖い。
「ここに来るのも、今日で最後だ」
「そう」
「しばらく日本を離れる」
「帰国はいつ頃?」
「さあな。いつ戻るかも分からねえし、ここらが潮時だろ」
「潮時……」
「何だよ。寂しいとでも言うつもりか?」
「そう私に縋って欲しいのはそっちでしょ?」
「言うじゃねえか」
寂しいと思う本音など、きっと彼にはお見通しなのだろう。煙草を吸い終えた彼が私の方へ向き直り僅かに口角を上げ、笑う。
「んな泣きそうな面で粋がっても、説得力も可愛げもないぜ」
そして次の瞬間、息が出来なくなる程きつく抱き締められた。煙草と、すっかり薄くなって消えかけた香水が混じった彼の匂いで鼻の奥がツンとして、視界が滲んで行く。
別れがこれ程早いだなんて、思ってもいなかった。
始まりは只の慰め合いだったとしても、私達はこれから時間を掛けて互いを理解しあっていくのだと。そう信じて疑わなかった。
何処へ行くの。どうして私を置いて行ってしまうの。独りにしないで。
聞きたい事言いたい事が沢山あるはずなのに、どれ一つとして出て来ない。
【恋物語】
忍ぶ恋こそ至極なり
本当なら、どんなにか慰めになるだろう。
私の恋は、自分以外は誰一人知らない恋で、相手に伝えてもいけない。その気配すら悟られてはならない。
口に出したら終わり。
日常というモノローグが延々続き、気紛れに貴方がちょっと登場するだけ。何て陳腐で退屈な―――
私と貴方の恋物語は永遠に始まらない。
【愛があれば何でもできる?】
昔そんな事を僕に聞いてきた元カノがいたなあ。
「限度があるっしょ」
そう答えたような気がする。望む答えじゃなかったんだろうね、彼女不満気だったし。
当時の僕にとって『愛』そのものの存在があやふやで、果たして自分の中にそんな感情があるのかすら判らなかった。(まあ正直今でも懐疑的ではあるんだけど)
理屈としては判らないでもないよ。見返りを求めず相手の幸せの為に行動する、または自分を成長させる原動力として『愛』って奴はとんでもなく力を発揮するって。
でも流石に愛を以てしても覆せない、人の能力では及ばない領域というものがある。だから限度があるって答えたんだ。それをあの娘は理解していたのかな?
もう別れちゃったし、会う機会も聞く機会もないけど。
ただ、「愛があれば何でも出来る」と臆面もなく宣う人間は、何故か相手にもそれを求めてくるから厄介だ。
少なくとも僕はそいつの為には何も出来ないし、したくなくなるね。
そんな事で冷めちゃう僕には、やっぱり愛って感情が希薄なのかも知れないな。ない訳じゃないんだろうけど。