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8/12/2025, 12:57:32 PM

真夏の記憶


私の頭はおかしくなった、ってみんな言うんです。
かわいそうに幻を見たんだろうって。
きっと暑さで頭がやられちゃったんだねって。
だけどあの日。あの夏の一番暑い日、私は確かに見たんです。
ーーじゃあね、またね。
あなたは笑っていました。

みんな、あなたが海に落ちたと言いました。
あなたは何もかも嫌になって、疲れてしまったのだろうと。
でも、私は違うって知っています。
あなたは海に落ちたんじゃない。帰ったんです。
青い水の中に吸い込まれていったあなたを、私は見ていたんです。
波飛沫の合間に、私が見たのは、美しく光る緑色の鱗と、しなやかに揺れる尾ビレでした。
あれが、あなたの本当の姿だったんですね。
私、しばらく声も出せずに見惚れていたんですよ。
本当のあなたがあんまり美しかったから。
今でも夢にみるほどです。息をするのも忘れるほど綺麗だった。

あなたはまだ、この海のどこかで泳いでいるのでしょう。果てしなく広がる青い海のどこかで。
潮風に吹かれながら目を閉じれば、青いきらめきの中で優雅に泳ぐあなたが、頭に浮かびます。
あなたは、じゃあね、またねと私に微笑んでくれた時と同じ優しい顔で、緑の鱗を輝かせます。
近頃、よく思い出すんです。
あなたが海に帰ったあの夏のこと。
息苦しいほどの暑さと、胸に迫る海の青。
お母さん。そろそろ私も、海に帰る日が近づいているようです。


8/12/2025, 3:57:50 AM

こぼれたアイスクリーム


暑くて動きたくなかったのに、出かけようと君は言った。
しかも夏らしいことをしたいから、海へ行こうだなんて。
私たち、恋人同士でもないのに。
きっと家族連れでいっぱいだよ。海って潮風で髪が痛むんだよね。日焼けしたくない。私、海アレルギーなんで。
色々と行きたくないアピールをしたのに、君は結局、なんだかんだで私を連れ出した。
夏だし出かけたら、なんかいいことあるかも、なんてぼんやりした理由で。
海辺のアイスクリーム屋さんでアイスを買った。
並んで歩く私たち、端から見たら恋人同士みたいに見えるんだろうか。
かわいい色のアイスクリームは暑さですぐに溶けて、道端にぼとりと落ちた。
すぐに虫が寄ってくる。
君と目が合って、思わず笑い合った。
ほらね。
夏らしいことしようなんて思うからだよ。
私たちは並んで歩き出す。手は繋がなかった。多分それが正解。この距離がいい。
冷たい甘さなんて、一瞬で消える。
みっともなく落ちたアイスクリームみたいに、ぐちゃぐちゃになるまで溶けあって面倒くさい私たちになるなんて嫌だよ。
うだる暑さも、かすかな疼きも、拭いきれない迷いも全部風が遠ざけてくれたらいいのに。

8/11/2025, 2:21:56 AM

『やさしさなんて』


「君が悪いんじゃないよ。全部僕のせいだから。僕が悪いんだ」

夫は終始、穏やかだった。
私をまっすぐに見つめて、他の人と関係したことを告げた。
少し間を置いて、本気なんだ、と言う。
夫の静かな口調に、頭の中がカッと熱くなった。
相手の方が本気?じゃあ、私は何?

「だからごめんね……別れてほしい」

夫の目にはもう私はいない。別れる別れない、の議論すら夫の中では終わっている。

「君もきっとすぐに他にいい人が見つかるよ」

きっとすぐに? 夫はもう私を過去にしている。

「君はやさしい人だから」

その一言は、ナイフみたいだった。
私のやさしさなんて、世界の中でなんとか泳ぐために身につけた仮面のようなものだったから。
自己保身の為のやさしさ、装った穏やかさなど見抜かれるに決まっている。
君はやさしい人だからという夫の言葉は、君の薄っぺらさに飽き飽きしたよ、と言われているみたいだった。

「地獄に堕ちろ」

滑稽なほど、自分には不似合いな言葉が口をついて出た。夫は一瞬だけ言葉に詰まって瞬きをしたが、すぐに微笑んだ。それからまるで子供を諭すように言った。

「うん、きっと僕らは地獄にいくんだろう。君は何も悪くないよ。君はずっと優しかった」

僕ら。
夫は、なんのためらいもなく、僕らと言った。
僕らって? 
一緒にいる人、パートナー、同じ価値観、同じ感情を共有できる人。
夫が言った『僕ら』の二文字を定義して、私は傷つく。
夫の些細な言葉にどれほど私が傷ついても、夫は少しも傷つかない。私がいくら口汚く罵っても、私が一晩中泣いても、夫には何も響かない。真に愛する人を得た者は、強いから。
夫は私を捨て去った。
私にやさしさ、という偽りの仮面を被せたまま。

翌朝、私は鏡の中の自分を見た。ゆっくりと微笑んでみる。
やさしい穏やかな仮面は歪んだまま張り付いて、もう剥がせない。
これが私の顔だ。その顔のまま私は呟く。

「地獄に堕ちろ」

虚しく愚かな言葉は、夫を呪うのではなく私自身を切り裂いていた。





『風を感じて』

「風を感じるのって、気持ちがいい」
とあの子は言った。
苦行とも言える暑さが続いたあの夏、僕たちが出歩くことができたのは夜だけだった。
湿気混じりの夜風を、彼女は心地よさそうに受けていた。頬に、こめかみに、風を受けながら彼女は軽やかに歩く。ダンスしているみたいに。
「なんだか、愛されてるみたい」
彼女はそう言って笑った。優しげな笑顔が、いつまでも僕の胸を締め付けていた。

だからね。
僕は死んだ後、風になったんだよ。
彼女の髪の毛を撫で、頬に触れる。
もう一度微笑んで欲しいから。
彼女の頬を伝う涙をそっと攫ってしまいたいから。




8/3/2025, 11:09:09 PM

「夏休み、どうすんの?」
「……まだ決めてない」
「実家は? 帰んないの」
「お盆あけ、すぐゼミの実習あるし」
「ふーん……」

当たりさわりのない言葉が、ぽつりぽつりと私たちの間に落ちて、静まり返った。
何度目だろう、この湿った沈黙。
あなたが私の部屋を訪れるたび、名前のつけられない何かが、胸の奥で膨らんでいく。学生最後の夏だというのに、言えないことばかりが積もっていた。
テーブルの上には、二人で分け合った炭酸の缶。
もうぬるくなって汗をかいていて、私たちの肌みたいだった。
蒸し上がった夕暮れの部屋で、二人ともキャミソールで、剥き出しの肩が何度も触れ合っていた。
西日はまだ窓から差し込んでいて、カーテンをすり抜け、あなたの細い鎖骨のくぼみに影を落としていた。
夏の夕暮れは、好きじゃなかった。
いつまでもだらしなく日が残っていて終わらない。だから願っていた、早く夜になればいいと。
会話の途切れた私たちは、動けずにいた。
どちらか少しでも動けば何かが崩れそうで、私たちは息を潜めるようにじっとしていた。
静まり返った中、あなたの細い指が、炭酸の缶の縁をゆっくりとなぞる。
あなたは、炭酸を喉に流し込んだ。小さな喉が少しだけ上下する。西日があなたの濡れた唇を照らしていて目が離せなかった。
炭酸を飲み終えたあなたと目が合って、それはまるで合図みたいだった。
私はそっと、あなたの手を取った。
あなたは何も言わなかったけど、指先は離れなかった。
私たちは無言でしばらく見つめ合った。
やっと私が絞り出した言葉は、暑いね、みたいな意味のない言葉だった。
「……でも、もうすぐ夜になる」
普段無口なあなたが言った言葉を覚えている。その一言に託すみたいに、私たちは身を寄せ合った。
夏のせいだった。
炭酸がぬるいのも、私たちの関係に名前がつけられないのも、全部夏のせい。

私たちはその夏、二人とも実家に帰省しなかった。
ただ、ぬるいソーダの味と夏の長い夕暮れを共有した。私たちはいつも性急だったけど、それは始めだけだった。あんなにもゆっくりと丁寧に、胸が苦しくなるくらい静かに過ごしたのは、あの夏だけだ。でも、私たちは肝心なことは言葉にしなかった。
夏が終わる頃、あなたはやっぱり何も言わないまま、私から遠くへと行ってしまった。
あの時言えばよかった。
言えずにいたのは、「行かないで」とか「また会いたい」とか、そんな言葉じゃなくて、たった一言だったのに。


8/2/2025, 2:58:23 AM

いやあ、参った、参った。
探し回ったんだ、この炎天下。コンビニを何軒も回ったよ。
悪いな、結局見つからなかった。お前の好きなピースもとうとう販売中止だってよ。俺がタバコやめてから何十年も経つから、全然知らなかった。
お前のピース、今年はなしだ。ははは、ザマアミロ。いい機会だからお前も今後禁煙な。
今時タバコなんてな、害悪扱いだぞ、吸ってる奴のほうが珍しい。でもコンビニ行ったらレジの向こう側にぎっしり陳列されてるのにな、みんなどこで吸ってるんだろうな。
すまん、花も忘れた。
いいだろ花なんか……いつもならユキエが用意してたから、すっかり忘れてたよ。
ユキエは今、入院してる。時々……わけの分からないことを言うようになった。認知の症状の出方は強弱があるようですね、なんて医者は言うんだ。
もどかしい言い方しやがって、まだらボケってやつだよ。
ちゃんと夫婦やってきたつもりだったのになあ、何十年も。誰?って言われるとやっぱりきついもんはあった。
なんかあいつの夫である身分をべりっと剥がされたみたいでなあ、怖かったよ。
ずっと考えてるんだ。
お前が生きてたら、ユキエと夫婦になったのは、やっぱりお前だったんだろうってさ。
気持ちっていうのは変わらないもんだ、特にお前みたいに若くてポックリ逝った野郎は、女心に残るんだろうな。俺の心にもしっかり残ってるぞ。
なあ、恨んでるか? ユキエと一緒になったこと。俺だって知ってたさ、お前とユキエがお互い憎からず思ってたのは……バカじゃねえのか、なんでお前ユキエに何も言わなかったんだよ。ユキエの心を宙ぶらりんにしたんだよお前は。
もしお前とユキエが一緒になったんなら、一番喜んだのは俺だからな。
最近よく思うんだ……お前がまだ生きていてユキエと結婚してたら、どんな夫婦になったんだろって。お前なら、ボケたユキエに誰って言われて、俺に泣きついてくんだろうな、とかな。
おい、俺のこと恨んでるなら化けて出てきていいぞ。
寂しいユキエにつけ込みやがってと、罵るのでもなんでもいい。俺のところに化けて出てきてくれよ。俺は待ってるんだ、お化けのお前が俺の前に現れるのを。
もうずっと、ずっと待ってるんだ。何十年も。
なんで化けて出てきてくれないんだよ。
お化けでいい、顔を見せてくれ。
暑くて毎晩寝苦しいんだ、エアコン代わりにお前で涼んでやるからさ、年寄りになった俺を見て笑ってくれよ。


八月、今年もまた墓前にて

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