知らない方が生きやすいってことも、あると思う。
「多分、愛着障害だったんだよね」
数年ぶりにあった姉に言われた、その四文字は、私から言葉を奪うには簡単なことだった。
「こんなことお母さんにも友達にも言えないからさ」
そう言って笑う姉に、愛着障害があったなんて到底思えず、今までも思ったことはなかった。
家族からのネグレクトや虐待はなかったし、私たちは、一般家庭と同じように育てられた子どもだった。
「そうだったんだ」
「まあ、今はそんなことないけどさ」
そう言って笑う姉は、お腹に優しく手を当てて幸せそうに微笑む。机の上にある携帯には、姉と旦那さんの笑顔がうつっている。
今考えると、姉と私では性格も考え方も違っていた。
姉は優しくされると嬉しくなり、のめり込む依存体質であったが、私は優しくされると怖くなり、1歩引いてしまう非依存体質であった。
つまり、姉が愛着障害ということに対して、なるほど、と納得してしまった。
「気づかなかった」
「そうだよね」
それだけ言うと姉は席を立ちトイレに向かっていった。
1人残された私は、ふと携帯に手を伸ばす。
姉はきっと、人と強く繋がろうとする、脱抑制型愛着障害というやつなのだろう。
そして、それはきっと、新しい家族によって緩和されているのだろうと思うと、少し羨ましい。
スっと指を動かす。
きっと、私達の親は愛着形成が下手だった。
画面に移る文字を見て、夢を見ているようにふわっとした感覚に陥る。
反応性愛着障害
" 親密な関係に不安を感じ、人との関わりを避ける"
喉がぎゅうっと狭くなる音がした。
《夢じゃない》
人生で初めて、浮気をされた。
「最近忙しいって言って、会ってくれなかったから」
というのが理由らしい。
「俺の事本当に好きだった?」
「好きだったよ」
私の言葉で表情の曇る彼。そんな顔ができるのならば、会えなくて寂しいの一言くらい言ってくれれば、私だってなにか変わったかもしれないのに。
彼と付き合って2年。たくさんの思い出も彼のために費やした時間も、簡単に手放せるものじゃなくて、ずっと言えなかった。
私たちの関係性は既に破綻していたと思う。
「好きだったよ」なんて、もういつのことか分からない。
『ねぇ、LINE冷たいよ』
そう言われたから、記号も絵文字もいつもの倍つけるようにした。
『今からきて』
そう言われれば、急な連絡でも、次の日が早くても迎えに行った。
当たり前のように私の物を使うところも、私だけが言うようになった"ありがとう"も"会いたい"も、彼に対しての気持ちを変えさせるには十分すぎた。
「俺が悪かったから、もう一度だけチャンスを下さい」
「私ね、本当はずっと、別れる理由が欲しかったんだ」
「..なんで?」
「私と話し合うことなんて、面倒くさそうな顔をして、結局してくれなかったでしょ?」
「違う、それは、今じゃなくていいかなって」
「じゃあ、いつだったらしてくれた?2年間、ずっと私と真剣に向き合ってくれなかったのに」
「..ごめん」
「..でも、嫌いにはなれなかったから、別れる理由ができて良かった」
ずっと、手放す勇気がでなかった私にも今日でさようならをする。
私は、幸せになるために生まれてきたのだから。
「ばいばい」
《手放す勇気》
俺の愛は、歪んでいる。
「違うって言ってよ、」
「ごめん」
「なんで?なんで浮気なんか..!」
そう言ってぼろぼろと瞳から溢れ落ちる涙が綺麗で、可愛くて、今までの穏やかな彼女が激しい感情を僕にぶつけてくることにすらドキドキする。
「ごめんね」
彼女が泣くのは、俺を好きだからだと思うと、嬉しくて、愛しくて、仕方がなかった。
浮気してしまった後悔と、彼女に対して抱いたこの感情が、ぐちゃぐちゃになって、冷や汗が止まらない。
「違うって言ってくれたら、それだけで、ばかみたいに信じてたのに!」
彼女とは真逆の女性とホテルに入っていく様子を、偶然彼女の友達に見られていて、それを問い詰められた。
写真だって動画だって取られていないし、言い訳だってできたはずだった。
それでも正直に話したのは、本能が君の泣き顔を求めていたのだろうか。
「だいっきらい..!」
そう言って俺に投げつけたリンドウをモチーフにしたブレスレットは、付き合って1年経った頃にプレゼントしたものだった。
※リンドウの花言葉:悲しむ貴方を愛する
※ブレスレットの意味:束縛、永遠
《プレゼント》
絶対に、好きになったらいけない人だった。
アロマンティック、というやつなのだと思う。
彼は、他者に性的感情は抱いても、恋愛感情は抱かない人だった。
だから、好きになったらゲームオーバー。
「私、絶対に樹くんみたいな人は好きになりたくない」
「えぇ、ひどいなぁ、なんで?」
「報われない恋愛なんてしたくないでしょ」
「んー、樹くんを変えてやろう!とはならないの?」
「今までそうしてきた子達が無理だったのに、私なんかが変えられるわけないじゃん」
「卑屈だな〜」
卑屈じゃなくて事実だった。
樹くんは、話し方とか仕草とか、女の子が好きになる要素をたくさん持っている人だった。
そんな彼を好きになる子は多く、その度に彼はその子たちに恋愛感情を抱かないと言っていた。
そうして彼を変えようとした、私よりも可愛い女の子たちが見事に散っていくのを、私は近くで見ていた。
だから、芽生えたこの気持ちは隠し通さなければ、彼とはもう一緒に居られないと分かっていた。
「雪、好きな人欲しいの?」
「まあ、できたらいいなとは思うけど」
「そっか、じゃあ俺にもチャンスはあるんだ」
そう言って嬉しそうに笑う樹くんに溜息が溢れた。
「樹くん、そういう思わせぶり、みたいなの辞めた方が良いよ。女の子、勘違いしちゃうよ。」
「勘違いじゃないよ」
「勘違いしちゃうって、」
「だって、雪の好きになる人、俺がいい」
「いや、樹くん、恋愛感情とか抱かない人でしょ。」
「うん、そうだった。そうだったんだけど、雪が俺のこと変えたんだよ」
真っ直ぐに見つめてくる樹くんと目が合って、呼吸が止まるような感覚に陥る。
私は、こうやってこの人の手のひらで踊らされている。
「それ、冗談?そうなら笑えないんだけど」
「なんてこというの。一応、俺の初恋、なんですけど」
顔を赤く染める彼の表情を、私は初めて見た。
「それって、私のことすきってこと?」
「うん、雪がすきだよ。」
私は、確かに胸が高鳴る音を感じた。
《踊るように》
街ですれ違った人から君と同じ香水の香りがして、君の笑顔を思い出してしまった。
どうやら、匂いは記憶に残るらしい。
「そういうの、プルースト効果っていうんだって」
「へえー、そういうの詳しいよね」
唯一の女友達とファミレスのサラダを分けながら、君のことを思い出した現象の名前を教えてもらった。
僕と君はお互いのことを全て知っているほど近い距離ではなかったし、僕の片思いで終わってしまったけれど、デートで君が纏ってた香りと同じだった。
たった1回のデートだったけれど。
「唯斗、三鷹さんのことまだ好きなんだね」
「好きとかじゃないよ、ただ、忘れられないだけ」
「あー、ツァイガルニク効果?ってやつだ!」
「そんな効果の名前言われても、分からないけど」
「まあ、簡単に言うと、実らなかった恋の方が記憶に残るよねってこと!」
「へえ、そうなんだ」
確かに、と納得してしまった。
君と付き合えていたら、僕は君を忘れられていたのかもしれない。
君は、今頃どこで何をしているのだろうか。
そんなことを思い返しながら、店員さんが運んでくれたパスタに手をつけ始める。
「次は、ザイオンス効果に期待だな〜」
「なにそれ」
「んー、何年も一緒にいる2人は、相乗効果で頭良くなるよ!みたいな」
嬉しそうに話す効果の名前は、カタカナが多すぎて最早何かも覚えられない。
「何その胡散臭い効果」
「私たちもう何年も一緒にいるけど、この効果だけは全く効き目がないんだよね」
はあ、と溜息をつく彼女を見て笑う僕、それを見て笑う彼女。
僕は君を思い出す度に、彼女にいつも助けられていた。
ご飯を一緒に食べて、話を聞いてくれる。
そういう優しさが有り難くて、ずっと友達でいたいと思った。
「私もね、好きな人の匂いがすると振り返っちゃうんだ、一緒だね。」
だから、彼女の言葉に胸が傷んだ気がしたのは、きっと気のせいなんだと思う。
※ ザイオンス効果 :単純接触効果のこと。相手に何度も繰り返し接触することにより、だんだん評価や好感度が高まっていくという効果。
《香水》