"答えは、まだ "
ずっと……考えている。
この店のメニューを見た、その瞬間から。
小さな炎に温められるガラスポット。
深い色合いの紅茶の中で、スライスされた林檎に混ざって金木犀の花がクルクルと舞っている。
その様を眺めながら、紅茶をまた一口。
林檎の甘味と金木犀の香りが相まって絶品だ。
考えることは、ひとつ。
ずっと、考えていた。
フルーツティーの中のフルーツって食べていいんだっけ。
湯量が減り、底に落ちてきた林檎が並ぶポットをジーッと見つめていると、店主がおかわりを淹れてくれた。よろしければこちらもお試しください、と氷菓子も添えて。
やったぜ。
にこにこしながら去っていく店主の後ろ姿を見送って、また質問できなかったことにハッとする。
飲むけど。
美味しいけど。
でもそういうことじゃないんだよなぁ。
答えは、まだ。
結論は出ない。
だが、幸いなことに時間はある。
まだだ。まだ焦る段階ではないはずだ。
とりあえずおかわり分を飲み終えてから考えようか。
"センチメンタル・ジャーニー"
センチメンタル・ジャーニーといえば、
ローレンス・スターンの小説
"A Sentimental Journey through France and Italy "
が思い浮かぶ。
海外の本はその国の言語で読みたい派だ。
翻訳を介すると、伝言ゲームみたいに微妙に意味が変わってくることがあるんだよな。
あと、その国の文化や風土に基づいた言葉だとか、何となくの空気感だとかは別の言語だとやはり表現し切れないよね。
でも、翻訳本を読むのは結構楽しい。
映画の字幕とか、歌の訳文とかも割とよく見る方だ。
正確さを第一にするか、
読みやすい馴染みのある言葉に変換するか、
それとも大胆に創作で埋めてしまうか。
翻訳家さんの工夫と個性が詰まっていて、面白い。
"君と見上げる月…🌙"
たとえ雨夜の月であったとしても、
隣に貴女がいればきっと素敵なものだっただろうに。
夜空が裂けて嗤っているような銀鉤を見上げて、
そう思った。
"空白"
書類上の父母は祖父母なんだよね。
養子縁組したから。
父母の欄を空白にしなければならない人よりもよほど恵まれた環境にいたと思う。
衣食住を、学ぶ機会を与えてくれた彼らには、
返し切れない恩義がある。
だから祖父母の前では記憶の中の彼女のことを母とは呼べなかった。
祖父母は形式的な呼び方に拘らない人達だったけど、それがけじめだと思ったから。
"台風が過ぎ去って"
子供の頃、里帰りだといって矢鱈と来客が増えるお盆の時期が嫌いだった。
祖父母の兄弟達はまだいい。
その子供もそれなりの年齢だ。
問題は、さらにその子供達、僕にとっては再従兄弟にあたる彼らだった。
まぁ、よく笑ってよく泣く、世間一般でイメージされる子供らしい子供だったと思う。
おおきいのは親御さんから色々言い含められているのか遠巻きにこちらを見るだけだったから問題ない。
だけど、ちいさいのは遠慮も手加減も知らずに遊べ構えと毎回寄ってきた。
本能の命ずるまま食糧を貪って、暴れて、走り回って泣き叫んで。
凄いよなぁ、自分が世界の中心だと信じて疑わないんだから。
でもまぁ、人間だって動物だもんな。
言葉の通じない動物の世話をしていると思えば、纏わり付かれるのもうるさいのも仕方無いと受け流すことができた。
だけど、お盆明け。最後までバタバタしていた彼らが帰った後。
騒がしい台風が過ぎ去って、荒れ果てた家の中を掃除するのは面倒だったし。
なにより。
はしゃぎ回る子供達を、眩しいものでも見るようにして見ていた祖父母の。
疲れた、ようやく帰った、と言いながらもどこか寂しそうな顔を見るのが、嫌いだった。
僕があの子達みたいな子供らしい子供だったら、
きっと祖父母は嬉しかっただろうなと思う。
でも、あんな風にはなれなかった。
あんな風に自由に振る舞う方法なんか知らなかったし、結局のところ、僕は祖父母から彼女を奪った仇でしかなかったから。