"どこへ行こう"
どこへ行こうか。
目の前を勢いよく通り過ぎていく列車。
視線を上げた先に映る、古ぼけたビルの屋上。
或いは広告写真の中の深い海でもいい。
ずっと、此処では無い何処かに行きたかった。
以前はいつだって、何もかもを置き去りにしてこの身一つでどこまでだって行ける気がしていた。
貴女が隣に居てくれたから何処にも行かずに済んだ。僕は此処までだって思えたんだ。
でも、あぁ、そうか。
もう貴女はどこにも居ないのか。
なんてね。
貴女の言葉は今も鮮明に覚えている。
貴女が居たこの場所で朽ち果てると決めたから。
だから、今日も何処にも行かずに此処で生きている。
"big love!"
上から読んでも下から読んでも同じ言葉を表すものを回文(palindrome(s))という。日本語の"しんぶんし"とか、"たけやぶやけた"とかでお馴染みの言葉遊びだ。
英語版だと、"eye" や "Borrow or rob? "、
"no lemon,no melon." 等がそれに該当する。
それに対して、逆から読むと意味が変わってしまうものをsemordnilapと呼ぶ。
犬(dog)も逆立ちすれば神(god)になるし、
ネズミ(rats)が回れば星(star)に変わる。
生きること(live)は邪悪(evil)だし、
この世を生き抜いたもの(lived)は悪魔(devil)と化す。
loveをひっくり返すと、evol(evolution:進化)だ。
変異と淘汰による生物の進化をひっくり返すと愛へと変わる、というのはなんだかスケールが大きい感じがして面白い。
まぁこじつけだけどね。
実際には意味なんて無い言葉遊びだけど、見つけると何となく得した気がする。
"ささやき"
厳冬期、マイナス10度以下の気温。
快晴で無風状態である等、限られた条件下では、細かな氷の結晶が太陽の光を反射しながら辺り一面を舞うダイヤモンドダストが発生する。その際、さらさらという小さな音が聞こえるらしい。
空気中の水蒸気が凍っていく微かな音。
あるいは、氷の結晶が空中で互いに衝突したり、地面に落ちることで生じる音だそうな。
そしてそれを、天使のささやきと呼称するんだって。
一度聞いてみたいなぁ。
"星明かり"
仕事を始めたばかりの頃、終電を逃して夜道を歩いていると、誰もいない公園に差し掛かった。
公園って遊んだことが無くても何となく懐かしい気がするのは何でだろうね。
滑り台やブランコ、砂場なんかを巡って、最後にジャングルジムに辿り着き、隙間だらけの遊具に手をかける。若干苦労しながら登り、天辺に腰掛け空を眺めた。
周囲に灯りの無い場所からは星がよく見えた。
星を見るにもセンスってものが必要なんだと思う。
幾ら星座の名前と形を知識として知ってはいても、実際に見ると全然見つけられないんだから。
辛うじてオリオンの三ツ星、赤いベテルギウス、一番明るいシリウスが分かるくらい。それでも空一面の星は言葉が不要な美しさだった。
そろそろ帰らなきゃな、と思いつつも降りるのが億劫で、そのままぼんやり星を見ていた時。
不意に、声をかけられた。
下を見ると、懐中電灯を持ったお巡りさんが立っていた。僕と視線を合わせてニッカリ笑った彼は、そんな所に登っていると危ないぞ、早く降りて来い、と手招きした。
彼はジャングルジムから降りた僕をベンチに座らせ、飲み物を奢ってくれた。
そして、俺も若い時は〜、と何やら語り出した。
家出だと思われているな、とすぐ気付いたけど、まぁ飲み物代分くらいは話に付き合うか、と口を挟まずにいた。彼の語り口は上手く、それなりに波瀾万丈な人生譚は興味深かった。
昔は悪ぶった餓鬼だったという彼の半生と、今の職務に就くきっかけ、やりがいはあるがそれでも理想と現実のギャップに苦しむことがあるという事、子供さんが反抗期真っ盛りだという家庭の悩みを聞いた辺りで、そろそろいいかと暇を告げることにした。
家まで送っていくと言ってくれた彼に、大丈夫ですと断って、身分証と名刺を見せた際の反応はなかなかの見ものだった。
ちゃんとスーツ着ていたんだけどな、ドンマイ。
お仕事頑張って下さい、と言って別れた。
それからも何度か夜道で顔を合わせる機会があり、彼が定年退職してからもしばらくは近況報告の連絡が来ていたが、やがてはそれも途絶えた。
一際寒さが厳しかった年の冬が明ける頃、彼の子供さんから彼の逝去を告げる電話があった。
葬儀には、かつての反抗期が無事終わった子供さんとお孫さん達、彼が改心させたという元不良少年・不良少女、元職場の同僚や部下など大勢の人が参列していた。黒い喪服の群れに、白いシャツやハンカチ、真珠のネックレスや数珠がチラチラと星明かりのように瞬いて見えて。一等高い正面の祭壇には、いつか見た、太陽のようにニッカリ笑う彼の写真が飾ってあった。
"影絵"
障子窓の隙間から見える満月に向かって手を組み合わせる。用意した電灯のスイッチを入れると、伸びた影が大きく映し出された。
大きな口を開いて今まさに月を飲み込まんとする、狼の影絵。
時間を変えれば、太陽を追いかける狼の姿だって作り出せる。
スコルもハティも、影であれば自在に操ることが出来た。ブレーメンの音楽隊はさすがに一人では無理だったけどね。