"静かな情熱"
88鍵のピアノの前に座った貴女が鍵盤に触れる。
軽く指を慣らした後、目を閉じて深呼吸をひとつ。
再び目を開いた貴女が指を振り下ろすと同時、目の前に火花が散った。
指先が鍵盤の上を勢いよく走ると共に焔が燃え拡がるような感覚に襲われ、静かだった部屋が真っ赤な業火に染まる。息苦しい程の赤の中で、一心に音を奏でる貴女だけが白く浮き上がって見えた。
僅かにタッチが乱れた瞬間、ピタリと音が止まり、全ては幻と掻き消える。
口を真一文字に引き結んだ貴女は、弛むことなく再度鍵盤に指を滑らせた。
どうしても弾きたい曲があるのだと、貴女は語った。
納得するまで何度も繰り返し続けられる演奏には、静かに燃える情熱が込められていた。
"遠くの声"
基本的に顔が判別出来る距離なら大体聞き取れる。
昔から耳が良いと言われていたし、むしろ聞こえ過ぎだと気味悪がられた。
学校の教室くらいの広さだったら端と端の対角線でも聞き取れたし、扉が開いている状態なら隣の部屋の会話でも大まかには分かる。
他の人はどのくらいの距離まで聞こえているんだろうか。
顔を見ながらヒソヒソ話をする人って、あれってどういう心境なんだろうね。
わざと聞かせているのなら悪意満載で気持ち悪いし、それとも、本当に内緒話のつもりで話しているとしたら相当おめでたいよね。
という主旨の事を学生時代にもう少しマイルドに伝えたら泣かれたんだけど、これってやっぱり僕が悪いのかなぁ。
ああいうのって窓ガラスについた汚れみたいに妙に目に付くからつい注目しちゃうんだよね。
声を潜めず普通に言ったらいいのに。
どうせどうでもいいことしか言っていないんだから。
"ひとひら"
灰の熾火がパチリと音を立て、火の粉が弾けた。
風に煽られ舞い上がった小さな炎がふらふらと、まるでひとひらの花びらのように落ちてくるのを反射的に捕まえてしまい、その熱さに顔を顰める。
チリリとした痛みさえ感じる手を開くと、そこにはただ黒い煤が残るばかりだった。
"風景"
昔々の春の一幕。
猛スピードで後方に流れていく風景。
人も建物も、過ぎゆく全てが等しく溶けて混ざり合う視界の中、僕の手を引くたった一人だけが鮮明で。
真っ直ぐに突き進む矢のように、曖昧な世界を切り拓いていく背中を眩しく思った。
不意にぴたりと止まり、手が離される。
急な停止に眩んだ目を数度瞬くと、そこには。
桜降る並木道の真ん中で、手を広げて幸せそうに笑う貴女がいた。
"君と僕"
君と僕は違うからと、ひび割れてしまうことがあるともう知っている。
そうだね。
むしろ、何が一緒なのかな。
同じ物を視れず、
同じ物を聴けず、
同じ物を共有できないのなら。
それはもはや、違うモノだろうに。