"約束"
コーヒーには砂糖をスプーン二杯、ミルクをクルリとひと回し。
紅茶は砂糖を一杯だけ、ミルクか檸檬かは気分次第。
マグカップの温かいココアには真っ白なホイップクリームをたっぷり浮かべて。
貴女に飲み物を淹れる時のお約束。
貴女のおかげで飲み物を淹れるのは上手くなったけど、貴女好みのコーヒーは僕にはちょっと甘すぎる。
いつもの手癖で砂糖を入れた後に気付くんだ。
"ひらり"
ひらりと舞う花弁が水面に落ちた。
花びらを起点として緩やかに波紋が広がり、
幾つもの綾を成す。
空を映す水鏡は崩れ、それでも新たに描かれる景色は例えようもなく美しい。
以前はよく花見に行った。
咲き誇り、上から降る花に歓声を上げる人波の中で、ひとり散りゆく花の末ばかりを見ていた。
"誰かしら?"
柔らかな光に照らされた真っ白な病室で、祖母は僕を見て困ったように首を傾げた。
ええと…、誰かしら。
ごめんなさいね。最近忘れっぽくて。
あ、もしかして娘のお友達?
もし知っていたら教えて頂きたいのだけど、わたしの夫と娘は何処に行ったのかしら。
唇が震えるのを感じた。
否定したかった。
あなたの孫だと言ってしまいたかった。
でもね。
忘れたままの方が、幸せだと思ったから。
あなたの娘はとうに居なくて、あなたの夫もつい最近亡くなったんだと、この無邪気に笑いかける人にどうして言えるだろうか。
分かってた。
それを選べば、もう、祖母の目に僕が僕としてうつることは無いのだと。
それでも。
あなたがそれを望むなら。
それであなたが笑ってくれるのならば。
僕は、僕じゃなくてもいいと思ったんだ。
後ろ手に閉じた扉に、力無く凭れかかる。
ぐるぐると、色んな感情が渦巻いては言葉にならず、ただ奥歯を噛み締めた。
僕は、何だったんだろうなぁ。
何年も、そばにいた。
祖父が亡くなってからは僕なりに祖母を支えてきたつもりだった。
でも、結局、祖母の中にいるのは僕じゃない。
どこまでいっても祖母の家族は夫と娘の二人だけで。僕の居場所なんて何処にもなかった。
誰にも望まれず、誰の心にも残れない。
きっと。最初から。
生まれてきたことが間違いだったんだ。
…馬鹿だなぁ、本当に。
呟きは、誰にも届くことなく消えていった。
涙は、零れた端から色を失くした。
窓越しの歪んだ青い空を見上げて、
まるで、水の中にいるみたいだと、そう思った。
"芽吹きのとき"
三月一日は七十二候の第六候“草木萌動"にあたり、
草木が芽を吹き始める時期だ。
寒さが和らぎ、春の足音が徐々に近付く日々。
だが、長い冬を耐え抜き、
眠っていたのは草木だけではない。
心しておかなければならない。
日常で小さな悪意が芽吹く、その時を。
経験上、三月から色々な問題が表面化することが多いんだよね。そういうのは得てして拗れて性質が悪い。
くわばらくわばら。
"あの日の温もり"
図書館の窓際に、日当たりの良い席があった。
他に利用者が居ない時はその席に座ってのんびり本を読んだり、昼寝したり。
本に囲まれた場所で暖かい日差しを浴びていると、
いつも穏やかな気持ちになれた。
今は無理だ。
図書館なんてここ数年行ってない。
朝から晩まで職場にこもりきりだと心が荒む。
あの日の温もりが恋しい。