"誰も知らない秘密"
秘密箱は決まった手順で操作を行わないと開かない。木材の継ぎ目が分かりにくい寄木、更には手数の多いものとなると、開けるのは困難を極める。
箱根で買った寄木細工の秘密箱を放置していたところ、貴女が興味を持って弄り始めた。
ちょっと動かしてはうーむと首を捻り、なぜか上に持ち上げたり、下に置いて考え込んだり。
なんとなく猫っぽいなぁと思いながら、貴女がなんとかして開けようと頑張っている様子を頬杖をついて眺めていた。
それからもたまに思い出しては挑戦していたけど、
結局、貴女が箱の中身を知ることはなかった。
実は部品が壊れていて開かないなんてことは、
貴女には最後まで内緒だった。
箱の中身は、僕以外誰も知らない秘密だ。
"静かな夜明け"
しんと静まった夜が緩み、清冽な光が差し込む。
薄鈍がかった雲が徐々に彩度を増し、薄明の燃えるような焼け空へと変わっていく。
条件の揃った時にしか見られない、音のない特別な夜明けの景色。
冬の澄んだ空気の中、コーヒー缶片手に刻々と変わる空を一人見上げていた。
"heart to heart"
学生時代、呼び出しというものをされたことがある。何回スルーしたかな、痺れを切らした連中に強制的に連れ出された。
何度か連中に小突かれたあと、近くにあった机に思い切り腕を振り下ろす。大きく鈍い音と共に、脳天に突き刺さるような痛みと痺れが走った。
人間の身体って意外と頑丈なんだよね。
思い切りぶつけてもなかなか折れない。
止められた。
頭狂ってんのか、と言われた。
心外だった。
実際に何回か殴られ蹴られた後で、更に腕まで折れたとあっては、大きな問題になる。最小限の犠牲でこれからの平穏を買えるのなら、骨の一本や二本くらい安いものじゃないか。
物を汚したり壊したりするなら、君たち本人じゃなくて君たちの親御さんに連絡して弁償してもらうし、陰口・悪口なら好きなだけ言えばいい。
ほっといて欲しいだけなんだ。
義務で通っているだけなんだから。
僕も君たちに興味はない。
どんな生い立ちで、何が好きで、日々なにを考えて生きているのかなんて知ったことじゃない。余計な情報なんていらないし、こちらも関わりたくなんかない。気に入らないなら見ないでくれ、気に食わないなら存在ごと忘れてくれ。
名前すら覚えていない同級生に、ただ、そう願った。
やはり腹を割って率直に話すということは大事だ。
それからはとても過ごしやすくなった。
ペアを組む時はちょっと困ったけど、まぁ生徒が駄目なら教師にどうにかして貰えばいい。強制的に誰かと組ませるか、一人を認めるか、はたまた教師とペアを組んでもいい。無理なことを要求しているのはそちら側なんだから、それくらいどうにかするのが当然だと思ってた。今考えたらなんて面倒で協調性のない嫌な子供だと呆れてしまう。
でもね、数年間、毎日嫌でも通わないといけない場所なんだから過ごしやすくする工夫は必要だろう?
あちらとこちらは違う側だし、
考え方や見え方が違っていても当たり前。
相容れないし、言葉だって通じるか怪しい。
だったら、初めからいらないものとして切り捨てた方が楽だ。
学生の頃の話を聞きたがった貴女に言うと、深く深く溜め息を吐かれた。普通は一人が怖くて、そんなに割り切れないと。まぁ、当時は半分くらい心が死んでたから仕方無いよね。
"永遠の花束"
貴女が初めてくれた記念日のカードは、花びらを漉き込んだ紙で作られていた。
貴女の字は特徴的で、僕の面白みのない字とは大違い。文字の柔らかさが心地良くて、ずっと見ていられる。嬉しさのあまり額装して飾ろうとしたら、やめろと止められたっけ。
貴女が嫌がるから飾るのは諦めて渋々仕舞い込んだけど、折に触れて取り出し眺めていた。僕があんまりにも喜ぶから、貴女は記念日以外のなんでもない日にもカードを贈ってくれるようになって、いつしか保管に使っていた大きなお菓子缶が全部埋まってしまった。
缶いっぱいのカードには、四季折々の花と貴女の文字が閉じ込められている。経年で色褪せてしまっても、ずっと変わることのない宝物だ。
"やさしくしないで"
寝たふりをして暫く、祖母が部屋を出ていったことを確認して目を開けた。
真っ暗な天井を見上げ、いつかの彼女の姿を思い出す。
思うのは、ひとつだけ。
どうして、僕も一緒に連れて行ってくれなかったのですか。
あなたが望んでくれたなら。
きっと僕は一も二もなく頷いただろう。
あなたと一緒に
あなたを世界の全てとしてあの部屋で終われたのに。
ぎゅっと目を閉じる。
最後に呼ばれた名前は、僕のものではなかった。
あぁ、きっと。彼女が本当に傍にいて欲しかったのはその男で。僕では代わりにもなれなかった。引き留める存在にはなれず、道連れにする価値もない、ただの人形、ただの愛玩動物でしかなかったんだろう。
そう思うと、水の中にいるように呼吸ができなくなって、
目を開ける。
気がついたら枕元に出ていったはずの祖母がいて、虚ろな眼差しで僕を見下ろしていた。
ねぇ、わたし、考えたの。
誰が一番悪かったんだろうって。
あの子は優しい子で、ちょっと怖がりで、泣き虫さんで…、こんなに意地を張るような子じゃなかったの。
家を出る直前、最後にあの子の姿を見た時。
あの子、ずっとお腹をさすってた。
あの時もう、あなたがいたんだわ。
ゆっくりと、細い指が首に絡みつく。
お前さえ、生まれてなかったら。
あの子はきっと、この家に帰ってこられた。
あの人もあの子を許して、もとの家族に戻れたのに。
ねぇ、返してよ。
歪んだ壊れた笑みを浮かべて、けれど自分が涙を流していることには気付いていたのだろうか。どうしようもなく、祖母は家族を愛した人間で。そんな人間が、こんな不気味でどうでもいい空っぽな子供のために罪に問われるのは可哀想だなぁ、と思った。
少しずつ込められていく力と、徐々に狭まっていく気道。このまま息ができなくなって死んでもいいと心は思うのに、手足だけがバタバタと見苦しく動き回る。
苦しくて、苦しくて。
勝手に歪んでいく視界に、溺れているようだと思った。真っ暗な水底に沈んでいくような、どうしようもない感覚。もがく身体の自由が奪われていき、口から漏れる音が言葉を成さずに消えていく。
ふいに、圧迫から解放されて息ができるようになった。何度も咳込み、滲む視界で、ごめんなさいごめんなさいとうずくまって泣く祖母をぼんやり眺める。
狂い切って壊れることも出来ず、その姿はただひたすらに哀れだった。
次の日の朝、祖母は何事も無かったかのような顔をして、子供はしっかり食べないとね、とご飯を山盛りよそってくれた。
僕も昨夜のことには何も触れず、ありがとうございます、とお茶碗を受け取った。
それだけの話。
あれから時が過ぎた。
鏡に映る自分の首には、もう随分と薄くなったがその時の痣が今も残っている。
時々、指でなぞって考える。
虐待されるのも目の前で死なれるのも殺されかけるのも。きっと、ありふれた話だ。
ただ人が生きて死ぬだけの話。
そう思わないとやってられない。
やさしくしないで。
僕にはそれを受け取るだけの価値がないから。
僕がそう言うと、貴女は泣いた。
君は馬鹿だと、何度も何度も繰り返して。