"heart to heart"
学生時代、呼び出しというものをされたことがある。何回スルーしたかな、痺れを切らした連中に強制的に連れ出された。
何度か連中に小突かれたあと、近くにあった机に思い切り腕を振り下ろす。大きく鈍い音と共に、脳天に突き刺さるような痛みと痺れが走った。
人間の身体って意外と頑丈なんだよね。
思い切りぶつけてもなかなか折れない。
止められた。
頭狂ってんのか、と言われた。
心外だった。
実際に何回か殴られ蹴られた後で、更に腕まで折れたとあっては、大きな問題になる。最小限の犠牲でこれからの平穏を買えるのなら、骨の一本や二本くらい安いものじゃないか。
物を汚したり壊したりするなら、君たち本人じゃなくて君たちの親御さんに連絡して弁償してもらうし、陰口・悪口なら好きなだけ言えばいい。
ほっといて欲しいだけなんだ。
義務で通っているだけなんだから。
僕も君たちに興味はない。
どんな生い立ちで、何が好きで、日々なにを考えて生きているのかなんて知ったことじゃない。余計な情報なんていらないし、こちらも関わりたくなんかない。気に入らないなら見ないでくれ、気に食わないなら存在ごと忘れてくれ。
名前すら覚えていない同級生に、ただ、そう願った。
やはり腹を割って率直に話すということは大事だ。
それからはとても過ごしやすくなった。
ペアを組む時はちょっと困ったけど、まぁ生徒が駄目なら教師にどうにかして貰えばいい。強制的に誰かと組ませるか、一人を認めるか、はたまた教師とペアを組んでもいい。無理なことを要求しているのはそちら側なんだから、それくらいどうにかするのが当然だと思ってた。今考えたらなんて面倒で協調性のない嫌な子供だと呆れてしまう。
でもね、数年間、毎日嫌でも通わないといけない場所なんだから過ごしやすくする工夫は必要だろう?
あちらとこちらは違う側だし、
考え方や見え方が違っていても当たり前。
相容れないし、言葉だって通じるか怪しい。
だったら、初めからいらないものとして切り捨てた方が楽だ。
学生の頃の話を聞きたがった貴女に言うと、深く深く溜め息を吐かれた。普通は一人が怖くて、そんなに割り切れないと。まぁ、当時は半分くらい心が死んでたから仕方無いよね。
"永遠の花束"
貴女が初めてくれた記念日のカードは、花びらを漉き込んだ紙で作られていた。
貴女の字は特徴的で、僕の面白みのない字とは大違い。文字の柔らかさが心地良くて、ずっと見ていられる。嬉しさのあまり額装して飾ろうとしたら、やめろと止められたっけ。
貴女が嫌がるから飾るのは諦めて渋々仕舞い込んだけど、折に触れて取り出し眺めていた。僕があんまりにも喜ぶから、貴女は記念日以外のなんでもない日にもカードを贈ってくれるようになって、いつしか保管に使っていた大きなお菓子缶が全部埋まってしまった。
缶いっぱいのカードには、四季折々の花と貴女の文字が閉じ込められている。経年で色褪せてしまっても、ずっと変わることのない宝物だ。
"やさしくしないで"
寝たふりをして暫く、祖母が部屋を出ていったことを確認して目を開けた。
真っ暗な天井を見上げ、いつかの彼女の姿を思い出す。
思うのは、ひとつだけ。
どうして、僕も一緒に連れて行ってくれなかったのですか。
あなたが望んでくれたなら。
きっと僕は一も二もなく頷いただろう。
あなたと一緒に
あなたを世界の全てとしてあの部屋で終われたのに。
ぎゅっと目を閉じる。
最後に呼ばれた名前は、僕のものではなかった。
あぁ、きっと。彼女が本当に傍にいて欲しかったのはその男で。僕では代わりにもなれなかった。引き留める存在にはなれず、道連れにする価値もない、ただの人形、ただの愛玩動物でしかなかったんだろう。
そう思うと、水の中にいるように呼吸ができなくなって、
目を開ける。
気がついたら枕元に出ていったはずの祖母がいて、虚ろな眼差しで僕を見下ろしていた。
ねぇ、わたし、考えたの。
誰が一番悪かったんだろうって。
あの子は優しい子で、ちょっと怖がりで、泣き虫さんで…、こんなに意地を張るような子じゃなかったの。
家を出る直前、最後にあの子の姿を見た時。
あの子、ずっとお腹をさすってた。
あの時もう、あなたがいたんだわ。
ゆっくりと、細い指が首に絡みつく。
お前さえ、生まれてなかったら。
あの子はきっと、この家に帰ってこられた。
あの人もあの子を許して、もとの家族に戻れたのに。
ねぇ、返してよ。
歪んだ壊れた笑みを浮かべて、けれど自分が涙を流していることには気付いていたのだろうか。どうしようもなく、祖母は家族を愛した人間で。そんな人間が、こんな不気味でどうでもいい空っぽな子供のために罪に問われるのは可哀想だなぁ、と思った。
少しずつ込められていく力と、徐々に狭まっていく気道。このまま息ができなくなって死んでもいいと心は思うのに、手足だけがバタバタと見苦しく動き回る。
苦しくて、苦しくて。
勝手に歪んでいく視界に、溺れているようだと思った。真っ暗な水底に沈んでいくような、どうしようもない感覚。もがく身体の自由が奪われていき、口から漏れる音が言葉を成さずに消えていく。
ふいに、圧迫から解放されて息ができるようになった。何度も咳込み、滲む視界で、ごめんなさいごめんなさいとうずくまって泣く祖母をぼんやり眺める。
狂い切って壊れることも出来ず、その姿はただひたすらに哀れだった。
次の日の朝、祖母は何事も無かったかのような顔をして、子供はしっかり食べないとね、とご飯を山盛りよそってくれた。
僕も昨夜のことには何も触れず、ありがとうございます、とお茶碗を受け取った。
それだけの話。
あれから時が過ぎた。
鏡に映る自分の首には、もう随分と薄くなったがその時の痣が今も残っている。
時々、指でなぞって考える。
虐待されるのも目の前で死なれるのも殺されかけるのも。きっと、ありふれた話だ。
ただ人が生きて死ぬだけの話。
そう思わないとやってられない。
やさしくしないで。
僕にはそれを受け取るだけの価値がないから。
僕がそう言うと、貴女は泣いた。
君は馬鹿だと、何度も何度も繰り返して。
"隠された手紙"
馬鹿やなぁ、なんで帰ってこんかった。
一言、助けて言うたら、なんぼでも手ぇ貸したったのに。
何本も空き瓶が転がる中、祖父だという男は彼女の写真の前でぽつりと溢した。
引き取られた祖父母の家には、綺麗に整えられた彼女の部屋があった。
たくさんの物と柔らかな色彩に溢れた、暖かい部屋。
飾られた幾つもの写真の中には、両親に挟まれて僕が見たことのない満面の笑みを浮かべる彼女の姿があった。
部屋を覗き込む僕に気付き、焦点をなくした瞳で、
あぁお前か、と手招きする。
隣に座ろうとすると、ヒョイっと膝に乗せられた。
居心地が悪くて身を捩ると、大きく笑われた振動で身体が揺れた。
笑いも泣きもせん、ちっとも似とらん思うとったけど、やっぱり親子やなぁ。気の遣い方がよう似とる。あの子もな、膝座るときはちいちゃくなってチョコンとしとった。かぁるいのに、ちょっとでも体重かけんようにって体浮かせてなぁ。
おもしろぅて、だいぶ大きなって嫌がられるまで、飯のときとかずっと膝に乗せとったわ。
懐かしむように、愛おしげに言葉が紡がれる。
けれど。
なんでいまここにあの子がおらんのやろか。
ふと、平坦で、冷静な声が落ちた。
上を見る。
こちらを見ているはずの祖父と、視線が合わない。
黒々とした瞳には確かに僕が映っているのに、その時祖父は僕を通して彼女を見ていた。
すまん、すまん。あの時、俺が追い出したから。
勘当なんて嘘や。ほんまに出ていくなんて思わんかったんや。ちょっと頭冷やさせるつもりで、すぐに考え直して戻ってくる思うとった。時間空くと、余計なんも言えんようになってしもうて。ほんまはな、お前がおったらそれで良かったんや。誰を好きになってもええ、なにをしてもええ。なんでもええわ、ただ幸せでいてくれたらそれだけで孝行な娘やったねん。
意地張っとってすまん。ごめん、ごめんなぁ。
ぽたりぽたりと、上から涙がこぼれ落ちてきた。
嗚咽と共に、骨が軋む程に抱き締められる。
何度も繰り返される謝罪は何の為のものなんだろう。
隠されて読まれなかった手紙に何の価値もないように、相手に届かない声に意味なんてないのにね。
泣き疲れて眠ってしまった祖父の腕から苦労して抜け出す。部屋を出ると、丁度毛布を持った祖母に出会した。祖母は机に突っ伏す祖父に毛布をかけると、僕の手を引いて寝室に案内してくれた。
許してやってね、と祖母は言った。
あの人はね、口は悪いし気は短いしすぐに怒鳴って喚き散らすどうしようもない人だけど…本当に、本当にあの子を愛していたのよ。
ごめんなさいね、と袖で目元を抑える祖母の姿に、
何も言えなかった。
ただ。
なんで愛され望まれていた彼女がいなくなって。
誰にも望まれていなかった僕がここにいるの。
そう、思った。
"バイバイ"
"バイバイ"って、最近全然言わないなぁ。
仲良しの友人同士や距離の近い関係性の人、仲間内、
もしくは子供さんに言うイメージがある。
いま自分が言うとしたら、さようなら、お疲れ様、 お元気で、あたりかな。
貴女がいなくなってからは他人行儀な付き合いしかないもので。
言える関係性の相手がいるのは貴重だと思う。