空っ風が吹く寒空の下、開けていたコートのボタンを留める。
風が冷たいが気温は高い。年末だというのに春頃の気温だと言うんだから、今年の冬は異常だ。
大きな荷物を抱えた小学生達が歩道で楽しそうに追いかけっこをしている。
近くに小学校があり、ここは通学路だ。この時間普段は通らないのだが、丁度下校時間に当たるらしい。
ランドセルパンパンに荷物を詰めている子、大きな荷物を複数持っている子、中身のなさそうなランドセルだけの子……。
あれは…絵の具セットと習字道具か。3年生位と思われる男の子がそれらしきバッグを持っている。手にはお道具袋もあり、ランドセルは蓋が閉まっていない。どうやらまとめて待って帰っているようだ。
昼過ぎの下校時刻。随分早いと思ったが、今日は終業式なのだろう。荷物が無い子は計画的に持って帰っていて、荷物を持って帰っていなかった子は、こうして終業式の日にまとめて持って帰っているんだろう。前々から持って帰れと先生にも親にも言われるというのに、何故こうなってしまうのか。
しかし思い返してみれば、自分もそうだった。終業式の日に小さいランドセルぎゅうぎゅうに荷物を詰めたものだ。
幸い教科書なんかは毎日持ち帰りだったから、その日は殆ど荷物が無くて。ランドセルに鍵盤ハーモニカを入れ、手には習字セットを突っ込んだお道具袋と、絵の具セット。工作で持って帰らなかった巨大貯金箱とジャンパーを抱えて帰っていた。
友人と自分の方が沢山持って帰っているなんてくだらない張り合いをしたりして。
勉強は好きじゃなかったけれど、そういう事の全てが楽しくて今では良い思い出として残っている。
春から子供が小学生だ。
学区が違うので、あの元気な子供達と共に登校する事は無いが、あんな風に友達を沢山作って楽しんで欲しい。
うちの子も、長期休みの前に荷物を抱えてくるだろうか。
夏休みに入る時が見ものだな。アサガオは今の子も育てているんだろうか。夏休み中に枯らせてしまったのは私の苦い思い出。担任に怒られたっけな。
冷たい風と子供達の笑い声が、私を懐かしい記憶へと誘った。
冬休みが始まる。年末が来て、新しい年が来る。
子供達の賑やかな声に今年も良い年になった気がした。
#冬休み
何処からともなく柚子の香りが漂う夕刻
駅前の古びた商店街は、全盛期にこそ劣るものの現代では珍しい程活気ついている。
今日は仕事でミスをしてしまった同僚のフォローに追われ昼終わりのシフトだったのがこの時間だ。辺りはすっかり陽が落ちている。まだ午後5時を過ぎた所だと言うのに街頭が無ければ真っ暗だろう。
都会から少し外れただけで、田舎と言うほど田舎でも無い、古き良きが残るこの町が私は気に入っていた。
駅を出て、商店街のアーケードを通りながら、今日はお惣菜でも買って夕食にしようと決めた。
定食屋から漂う良い匂いに釣られてしまいそうだが、今日は消費しなければならない作り置きがある。メインのおかずだけ買って、冷凍してある白米を温めて食べよう。流石に疲れたので、何もしたくない。
それにしても今日は随分と良い匂いがする。柑橘の香り…この香り知っているが、パッと頭に出てこない。なんだったか。
疲れたせいか頭が回らず、いつもならすぐ出てきそうなこの香りの正解を探しながら、行きつけの肉屋へ立ち寄った。
ここのコロッケが好きでよく買いにくる。今日はガッツリメンチカツも悪くない。さてどうするか。
目に入ったのは柚子入りコロッケ。あ。と頭の中で繋がった。
「それは今日だけの特別商品柚子コロッケだよ。サッパリして美味いから1つどうだい?」
奥から出てきた店の息子が私に言った。時期店長の跡取り息子だ。私が通うからよくおまけをつけてくれる有り難い存在。
「今日だけ?」
「そう。今日だけ。ほら、今日は冬至だろ?だからってんで、母さんに言われて。あとカボチャコロッケもおすすめ、今日は冬至だからってみんな食べるんだ。残り2つ、それで最後だからどっちも買ってかないか?」
そうか。今日は冬至だった。すっかり忘れていた。
町に漂うこの香りは、柚子の香りなんだ。
商店街の上の階は住宅の家が多い。何処もこの時間柚子風呂に入っている。思えば商店街で黄色い物を沢山見かけた気がすした。あれも柚子だったんだ。
「じゃあ、かぼちゃコロッケ2つと柚子コロッケ1つ」
「あいよ。少々お待ちを」
息子は紙袋にコロッケを詰め、お金を受け取ると裏に引っ込み再び出てきた。手にはビニール袋を下げている。
「はい。じゃあこれコロッケと、柚子のお裾分け。あとこれはオマケ。揚げたてコロッケ。火傷しないように」
「わっ、沢山……。ありがとう」
「まいど、気を付けて帰るんだぞ〜」
手から伝わる熱々のコロッケの熱が優しさをじんわりと広げていく様に。噛み締めながら頬張った。
「あっつ」
ザクザクの衣と中のホクホクしたジャガイモの食感を楽しみながら、家路につく。
この歳になって食べ歩きながらの帰宅。青春時代に戻ったようだ。
そして、それを違和感なく出来るこの商店街の雰囲気が好き。町では誰かが食べ歩きをし、店先では井戸端会議が開かれ、ベンチで帰宅前の腹ごしらえをする学生が居る日常。
それを微笑ましく眺めながら、商店街を抜けて路地を曲がった所にある小さなアパートに帰ってきた。
買ってきた物を台所に置き、湯船を溜める。
夕食の支度をし、作り置きのおかずとコロッケを堪能してから、風呂へといった。
湯船に入るのは久しぶりだ。いつもシャワーで済ませてしまうから。
年末前にと早めに行った風呂掃除がこんなタイミングで役立つとは思っていなかったが、溜まった湯船にお裾分けの柚子を浮かべた。
先に身体を洗う。温まった柚子が次第に香りを放ち、風呂場は柚子の良い匂いで充満した。
ゆっくりと足から入浴し、肩まで浸かるとじんわり身体が温まっていく。オマケのコロッケを食べていた時と同じだ。
優しさに包まれて身体に染み渡る感覚。久しぶりにゆっくりと入浴した。
今日は特別だ。残業して頑張った自分へのご褒美。
同僚のミスだって、みんなでカバーしたからどうにか出来たんだ。それで良かった。私もそれに文句は無いし、みんなも文句は言ってない。誰かに優しく出来た。誰かに優して貰えた。今日はその優しさを噛み締める日。そんな事を思いながら、柚子の香りを全身に纏う。
こんな日もたまには悪くない。
#柚子の香り
一人で居るのが当たり前だったから
誰かと共に過ごす事を知らなかった
一人で居るのが楽だったから
誰かと居る楽しさを知らなかった
一人で居るのに慣れてしまって
君と居ることが特別だった
一人で居る事が当たり前だったのに
君との時間が当たり前になっていた
一人で居る事なんてなんとも無かったのに
今は君が居ない事がこんなにも悲しい
僕の隣に居る君が当たり前になってしまって
空いてしまった横の埋め方がわからない
空いてしまったこの空虚が
″寂しい″という感情なのか
#寂しさ
とりとめもない話をしよう。
そう言って語り始めるとしたら、何が正解か。
このテーマを見たのは深夜2時を過ぎた時だった。最近寝るのがすっかり遅くなってしまってダメだなと思いながら、布団に潜る。
昼間は暖かったのに夜はすっかり冷えてしまって、包まった布団の中でこのテーマについて書く内容を考えていた。
とりとめのない話。とりとめないとは何か。
まぁ、目覚めてから何を書くか考えていたことの8割は頭から抜けてしまい、今書いているこれも書こうとしていた内容だったかも怪しい。
覚えていた2割は、このように「とりとめのない話について論ずる」事と、冒頭に書いた「とりとめのない話をしよう」という文だけ。
それで2割が埋まるのだから、元々考えいた内容の薄さが目に見えている。それでもしっかりオチまで考えていたんだから、寝る前としては上出来ではないだろうか。
そもそも「とりとめのない話」というのは何なのか。
今や私の辞書とかしているこのスマートフォンで検索をかけてみたところ「まとまりや結論が無く、バラバラした内容」と出てきた。類語として「たわいない」「よしなごと」「漠然とした」「取るに足らない」などが挙げられるらしい。
私の中で「とりとめのない話=たわいない話」類語を=で繋いで良いのかという疑問はさておき、そういう認識があった事は確かなので、言葉の意味として知っていた事と差異が無かった事は良かったが、取るに足らないも類語となると急にこの言葉がマイナスなイメージなように感じられてしまう。
「たわいない」では、和気藹々と、気心知れた、朗らかな雰囲気、落ち着いた、などの印象が挙げられる。
たわいない話と聞くと、これと言って内容はないものの悪い話をしている印象は無いだろう。
しかしどうだろうか、これが「取るに足らない」という言葉に変えられると……急に会話の内容が不必要な物だった様に思えてしまう。
内容が全く同じだったとしても、何を話したのかという問いに対しての答えが「取るに足らない」だったとしたら、そこで過ごしていた時間が無意味だったと、楽しくはない物だったようには思えないだろうか。
これは受け方次第なのかもしれないが、少なくともそういう受け取り方をしやすい、誤解される可能性が高い言い回しではあると思う。
普段の会話では気にならないかもしれない。会話なら「取るに足らない話だったよ」と返された場合「つまらなかったの?」と聞き返せば良い。そこで楽しい話だった場合は「いや、とても有意義な時間だった」とでも言えば良いのだから。
気を付けねばならないのは、文章の時。
例えば小説で「取るに足らない話をした」という人物の行動描写があったとする。読者はその一文から「この人物にとっても有意義ではない時間だった」と解釈するだろう。しかしこれが「たわいない話」と書かれていたら「この人物にとって有意義な時間を過ごした」と解釈出来る。
同じような意味でも言い回し一つで印象がこうも変わってしまうのだ。やはり日本語というものは、難しくて面白い。奥が深いとも言える。
さて、とりとめのない話をしようと言った私のこれはとりとめのない話になったのだろうか。
この話が読み手の貴方にとって「たわいない話」になったのか「取るに足らない話」になったのか。
出来れば前者であって欲しいと願うばかりだ。
しかし、オチがついてしまった。これではとりとめのない話とは言えないだろうか。
取り止めのない話をしようとしてするのは、案外難しい事なのかもしれない。
#とりとめのない話
風邪をひかなくなった。
大人になったから…だろうか。わからない。
免疫力がついたのは確かなんだろう。
学生時代「木を張っていれば風邪はひかない」と言われた。
根性論と思われるかもしれないが、そうじゃ無い。
気を張っていると、自然と抵抗力がついて風邪をひかない。悪化しない。確かそんな話だった。
とは言ってみたが、やはり根性論なような気もする。
実際科学的根拠があるかどうかは知らない。
知らないが…なんとなくそれは実際そうな様な気もする。
社会人になって、風邪をひく事が憚られた。
正確には風邪をひいて、仕事が出来なくなってしまう事が。
会社を休むという行為が苦手だった。
会社に限らず学校もだ。
自分で欠席の連絡を入れて、休むという宣言をして休暇を取るのが苦手だ。
だから死ぬ気で風邪をひかないようにした。
大学生の頃はよく体調を崩して休んだ。
精神的なストレスによるものである事はわかっていた。
だが、大学は欠席連絡が要らない分、少し気が楽だった。
転職をしたが風邪はひいていない。
前の会社より休みは取りやすい環境になったが、やはり仕事を休むという行為がどうしても苦手らしい。
たった一言「体調が悪いので休ませて下さい」が言えないのだ。
それを言う事が精神的に辛くなってしまう。
だったら何がなんでも休まない様に身体を整える。
その為に具体的な何かをする事は無い。
ただ、手洗いうがいを徹底するとか、マスクを着けるとか。
誰もが出来る対策だけ。
風邪っぽいと思ったら、早めに薬を飲むとか、のど飴を舐めるとか、本当にその程度。
だが誰よりも「風邪をひきたく無い」という気持ちは強いと思う。
病は気からという言葉がある様に、死ぬ気で風邪をひきたく無いと考え思い込むと、人間本当に風邪をひかないのかもしれない。
ここ10年を振り替えってみても風邪で寝込むような事は片手で収まる程だ。
それも1日、2日で回復するものだけ。大きなものはない。
寝込んだ時も微熱程度。そして、それにより私は「どうしても参加したくない行事」に参加をしなくて良くなった。
病は気からもいうが、本当にその通りなのだろう。
私は風邪をひいて休むことよりも、風邪を引いてでも参加したくない行事に出なくて済む事を取ったのだ。
メンタルが身体に与える影響はかなり大きいというのがわかるだろう。
だからこそ思うのだ。
案外根性論とも思える「気を張っていれば風邪はひかない」という教師の言葉は、あながち間違いでも無いのではないかと。
#風邪