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12/8/2023, 10:28:57 AM

【ありがとう、ごめんね】

私が産まれた時、家にはもう柴犬のタロが居た。タロは私より一歳歳上の良いお兄さんだった。
タロと私は、ボール遊びをしたり、散歩に行ったり、時には喧嘩したりしながら一緒に成長していった。一人っ子の私にとっては、タロだけが本当の兄弟のように思えた。
私たち家族は、タロのお陰で賑やかで退屈しない、とても楽しい日々を送っていた。


それから時が経ち、私は大学進学と共に一人暮らしをすることになった。この時、私は十八歳、タロは十九歳。
タロは白内障になり、目がほとんど見えなくなっていた。大好きな散歩をしても途中で疲れてしまい、寝ている時間が多くなった。


「タロ、行ってくるね」

引っ越しの日の朝、眠っているタロに声をかける。するとタロは白く濁った目を細く開けて、「くぅん」とどこか悲しそうな声を出した。まあ、眠いから話しかけられるのは迷惑だ、と言ってるだけかも知れないけど。

「またね」

私はタロを目一杯撫でると、家族と十八年暮らしてきた実家を後にした。

一人暮らしを始めたら、すぐに寂しさに襲われた。家族、特にタロが居ない生活は初めてだ。タロが居たから、一人っ子でも両親が仕事で留守番をしていても、寂しい時なんて無かったんだと気付いた。

(タロ、ありがとう)

スマホに入ったタロの写真を見ながら微笑む。このスマホには、可愛いタロの写真や動画がたくさん保存されているのだ。写真を見ているとタロにすぐ会いたくなったけど、しばらくは一人で頑張らないと。


母から連絡があったのは、それから一週間後のことだった。

「……朝起きてきたら、タロが息をしてなかったの」

スマホを耳に当てたまま言葉を失う。父も母も、そして私も。誰一人タロの側に居ない時、たった独りで死なせてしまった。いつも一緒に遊んでくれて、一人っ子の私に寂しさを感じさせなかったタロ。それなのに、私はタロに寂しい思いをさせた……。引っ越しの日の朝に聞いた鳴き声が悲しそうだったのも、気のせいじゃなかったのかも知れない。

「ごめんね、タロ……」

今から、タロに会いに行こう。沢山のありがとうとごめんねを伝えるために。

12/7/2023, 10:41:58 AM

【部屋の片隅で】

今、家には僕しか居ない。騒がしく乱暴な同居人が居ないのは良いことだ。自分の好きなように、のんびりと過ごせるから。

部屋の片隅で同居人が買ってきたチーズを頬張る。濃厚な味わいが口の中に広がり、大きな満足感を得られた。まさに至福のひと時だ。

それにしても、だだっ広い部屋の隅っこに居るのは落ち着く。部屋のど真ん中に居るとどうにもソワソワするし、同居人とはあまり顔を合わせたくない。同居人も僕のことを嫌っているようだから、お互いに関わらない方がいいだろう。

僕がチーズの最後のひとかけらを口に入れたところで、ドアを開けたかのようなガチャリという音がした。続いて聞き慣れた足音が近づいてくる。まずい、同居人が帰ってきた。顔を合わせたくないと思い、僕は身を縮こまらせる。

「……キャーッ!!」

同居人の悲鳴で耳が痛い。部屋の隅にあるハンガーラックに上着をかけようとしたところで、僕を見つけたらしい。

「なんでまたネズミがいるの!?」

同居人がもううんざりとでも言いたげな顔で言って、何かを探し始める。いつも通り、僕を退治するための武器を探しているのだろう。
だけど、僕には素早く動ける自慢の足がある。部屋の床を蹴って駆け出せば、同居人の姿はすぐに見えなくなった。
同居人には悪いけど、僕はこれからも同居を続けさせてもらうよ。

12/6/2023, 10:24:28 AM

【逆さま】

鉄棒に両方のひざの後ろを引っ掛けて、ぶら下がってみる。
見える景色が全部逆さまだ。

バネの付いた遊具も、風に揺れているブランコも、名前も知らない大きな木も、いつも見ている空も。ぜーんぶひっくり返る。

逆さまになっていると頭に血が上ってきて、嫌なことも忘れられそうだ。
嫌なことも逆さまにすれば、良いことになるかも知れないよね。

「パパ、もう帰ろう?」

砂場で遊んでいた息子が俺の元にやって来る。困り顔の息子も逆さまに見えた。その隣には息子の友達が三人居て、俺を見ながらひそひそと何か話している。

俺は名残惜しく思いつつも、鉄棒から下りた。息子の友達たちに手を振ってから息子と一緒に公園を出る。
泣きそうな顔をしている息子の頭を撫でたら、勢いよく手を払いのけられた。ああ、なんかショックだなあ。夜中にまた一人で公園に来て鉄棒にぶら下がって、嫌な気分を逆さまにしようかな。

12/5/2023, 2:02:15 PM

【眠れないほど】

僕は、「明日」が楽しみでしょうがない。
常に「まだ見ぬ未来」に興味があり、逆に「今日」にはほとんど興味がない。
この話をすると大抵、君は変わっているねと言われる。

毎日、明日が楽しみすぎて眠れないほどだ。
夜の九時には布団に入るが、明日のことを思うと興奮して眠ることができない。目が冴えきって、目を瞑って寝ようとしても自然と明日のことを考えてしまう。
そして十二時になる瞬間、その興奮はMAXになる。僕はこの瞬間のために生きているといっても過言ではない。

……それから時計の針が十二時一分になると、途端にこの世に興味が無くなるのだ。「今日」が来てしまったから。
急に眠くなって、全てがどうでも良くなる。次の「明日」が来るまで二十四時間近くもあるなんて、と憂鬱な気分になりながら眠りにつく。

僕にとっての「今日」は、虚しいものでしかない。
だけど「明日」には、希望がある。
もしかしたら明日になれば、気の合う人と出会えるかも知れない。ふとしたことから大金を手に入れられるかも知れない。仕事で大成功するかも知れない。
実際はそんな希望、希望のままでしかないことが多いけれど。
変わり映えのしない今日よりも、変わるかも知れない明日に思いを馳せる僕は、そんなにおかしいんだろうか。

12/4/2023, 11:39:02 AM

【夢と現実】

毎日、幸せだ。仕事は順調だし、家に帰れば愛する妻と娘が居る。休みの日は友人とキャンプに出かけることもあるし、家族と旅行に行くことも割とある。
給料だって充分貰っている。同世代の人が貰っている額と比べたら多い方だろう。
体も健康そのものだ。まだ三十代、歳を取って体のあちこちが痛いということもない。俺の両親も妻の両親も健在、今のところ大きな病気もしていない。

本当に、幸せそのものだ。
けれど俺はあの日からずっと、毎日同じ夢を見ている。

「殺さないで!」

暗闇の中で悲痛な声が耳を貫く。金切り声に似たそれは、足元で倒れている男が発したものだ。
このあと、夢の中の俺がこの男に何をするかを俺は知っている。だけど、それを止める術は知らない。

夢の中の俺が振り下ろした大きな石が、鈍い音を立てて男の命を奪う。辺りはしんと静まり返り、俺はその場に立ち尽くしている。

「当然の報いだ」

呟かれた声は自分のものとは思えないほど暗く冷たい。それが恐ろしくて、いつも飛び起きるのだ。多量の汗をかき、心臓が激しく脈打ち、荒くなった呼吸を整えるのにも時間がかかる。

今、現実の俺はこんなにも幸せなのに。昔の出来事が夢となって今の俺を苦しめる。
今だったら、あんなことは絶対にしないだろう。あの頃はまだ高校生だったし、何もかもうまくいかない時に揶揄われたから、ついカッとなって……。

いくら悔やんでも、夢を見続ける。捕まって罪を償うこともなかった俺への罰なんだろうか。
でも、だからってあの男に俺の幸せを邪魔する権利は無いはずだ。十年以上もしつこく夢に出てくるなんて、いい加減にしてほしい。ふざけるなよ。
そう思ったところで、スマホが鳴った。

「――奥様と娘さんが亡くなりました」
「……え?」

交通事故。一瞬にして妻と娘を失ったことを信じられるわけもなく、俺は愕然とする。

そして、俺はあとから知ることになるのだ。妻と娘をわざと轢き殺した犯人が、男の父親だったことを。
裁判の時、男の父親は俺を見て、笑いながら言った。

「当然の報いだ」

――頼むから、夢であってくれ。もう無数に願っているけれど、これは確かに、現実なのだ。

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