頭の裏側の世界の質量が、目の前にある世界の質量を上回らないように生きていくのが難しいので、いつも世界のサイズがひっくり返っているような気がします。
なので、もう長い間生きているのに、脳みその表側にある世界のことがちっともよく分からず、生まれたことも死ぬことも、うまく喜んだり悲しんだりできません。
老いさらばえた猫なんかが丸くなっているのを見ると、コーヒーや紅茶にたっぷりのミルクをゆっくり注いでいくように、少しずつ夢の中や、死後の世界が混ざっていくのを感じます。とても穏やかなものです。人間もそうなのでしょうか。
寝ていても起きていても、同じようなことしか考えられない私の意識には、どれほどのミルクが混ざっているのでしょうか。
多分、体はまだまだ長持ちします。その間、私はどのくらいの質量で生きていられるのでしょう。
旅行先のほとんどをホテルで過ごすように、生まれながらに夢を見て、何度目かの特別な日を迎えます。
私の体へ、世界へ、生きながらえてくれて、ありがとうございます。
これを読む方が、今日少しでも健康でありますように。
幸せになりたい。と、漠然と願っていた時期がある。願いというより、祈りに近かったかもしれない。
今の自分のどうしようもなさが全て消え去って、まるで全くの別人かのように、幸せになってしまいたい。今考えれば、あの気持ちは希死念慮にも近しかった。
日々が忙しくなるにつれ、気持ちでいっぱいだった人生の小瓶が、紛れもない自分自身の行動で埋まっていく。夢想した幸せよりも納得感があって、ずっとささやかな今。私は確かに、大丈夫だと思っている。
誰よりも優れた何かなんて、一つも持っていなくていい。ただ、誰よりもできないことが一つも無くなってくれさえしたら、それだけで私は生きていけるのに。
いつも自分よりひとまわり大きな世界に包まれて、その広さに圧倒されながら、でも確かにそこから追い出される心配もせずにいられたら、どれだけ幸せだろうか。
そんなことは叶わない。ひとりでに考える“普通”が、いかに“理想”的か、大人になった自分にはもうとっくにわかっている。
それでも、街を歩く人は皆普通に見えるし、自分はまだ、子供の頃の汚れたスニーカーを引きずっているような気がする。
これを読んでくれた人が、素敵な自分を見つけられますように。
ふとした時、自分の心が言うことを聞かなくなることがある。
先ほどまでは普通の人のようなふりをできていたのに、突然にして心が体の手綱を引っ張る。頭の中で何度自分に「仕方がない」と言い聞かせても、泣きじゃくる子供のように頑なな心は、ずっと体を抱きしめてその場に縛り付けてしまう。
仕方がない、なんて何回唱えても、心自体が納得しなければ何の意味もない。いつからか習慣になった諦めるためのおまじないは、私の心でないならば、いったい誰が言わせているものなのだろうか。
これを読んでくれた人が、少しでも素直にいられますように。
空中ブランコのような生活が続いていると思う。不安定で刹那的。それでも、全身に風を受けて次の地点を見定め、飛び立つ時は気持ちがいい。
昔学校をサボって、その朝初めて知ったような当てずっぽうな場所へ行ってみたことがある。その日から私の全身が、自分で決めることの楽しさを忘れられずにいるのだ。
元の地面に足をつけられないまま、だからこそ、せめて投げやりになってしまわないように。毎日を丁寧に、不安定に暮らしていきたい。
これを読んでくれた人に、爽やかな1日が訪れますように。