猪口に波波と酒を注ぎ、じっと見つめる。暫く猪口の中で揺れていた酒は、溢れることなく直ぐに静まった。
酒に映るのは、欠け一つない満月だった。
くいと飲み干した千景は、そっと猪口を置き、徳利を手にした。
何してるんですか。
盆を手にした茜を一瞥し、鼻で笑った。誤解されやすい人だが、今のは小馬鹿にしたわけではない。見られていたことを恥じている、この人にもそんな人並みの感情を持っていることに茜が気づいたのはここ数年だった。
再び猪口に目を戻した千景は、それを手に取り口にした。
「……ある地域、私が昔神官として赴任していた村で伝わる満月の日の慣習だ」
月鏡酒。その村ではそう評していた。
徳利から猪口に注ぐ際に、満月が酒面で揺れないように映るようにする。それを徳利一杯分飲み干すまで繰り返す。それだけだ。
もう酒がなくなったらしい。空の徳利を盆に返し、その隣の新しい徳利を手に取った。
「…………その村では、子供の成長や自立を祝う時にそうやって飲むんだが、元々の成り立ちは……」
……国試を受ける子供の受験祈願なんだ。
重そうな口調で紡いだ千景の言葉に茜は目を丸くした。バツの悪そうな顔で猪口をいじる千景は、小さな村だし受験するような子供なんて滅多にいないからいつの間にか子供の成長だとか漠然としたものに変わったのだろうなどと呟いている。
「あの子も、麗華ちゃんも慶士君も皆受かると良いですね」
「どうだかな。二人はともかくあいつは無理なんじゃないか」
「またそんなことおっしゃって……」
相変わらず突き放した言い方だが、それだけじゃないことはそのお酒の儀式を見れば一目瞭然だ。
「落ちたら宮城内に入らなくて良いんだ。あいつは受からない方が」
千景は途中で言葉を止めた。もう何度もその話はしてきたし、最終的に都に送り出すと決めた。しかし、いくら母親似だからといって、目の届かない場所、しかも城内にある学校で過ごすことに対して、未だに不安は拭えなかった。
「大丈夫ですよ、見た目は私似。千景様曰く性格は似ても似つかないのでしょう?」
顔も性格も全く似ていない。最初から奴が存在していなかったかのように。
それでも、場所が場所だけに眉を顰めざるを得ず。
新しい徳利から注いだ酒は波打ち、ぐにゃりと月を歪ませた。
ルーカスが再び目を開けると、暗闇が広がっていた。
一瞬もう治ったかと思ったが、すぐに頭がキリキリ痛み出した。
昼なのか夜なのか。
今が何時かもわからない。
鬱陶しげに寝返りを打った。視界に入ったのは、閉じ切ったカーテンだった。昨日の昼はカーテンの隙間から光が漏れていたが、今は光が見えなかった。
昨日の夕方から雨が降っているらしい。その時は知らなかったが、今は部屋で寝ていても聞こえるくらいうるさい雨が降っている。
あの日も……あの時も雨だった。
ルーカスは、顔を枕に埋めてうつ伏せになった。
あの時とは違う。
雨漏りとは無縁の立派な屋敷。シミもシワもないシャツとズボン。焼きたてのパンに具だくさんのスープ。それに加えて夜は日替わりで肉か魚料理が出る。おまけにおやつまでくれる。
今寝ているベッドだって、まだ父親と母親がいた時に住んでいた家のそれと比べても、段違いだ。
本当に、医者なんか呼んでくれるのだろうか。目が覚めたらあのバラック小屋に戻されるのではないか。
もちろん、あいつらがそんなことをするはずないとわかっていても、熱が下がれば追い出されるのではないか。そんな不安が心を蝕んだ。
……雨、早くやんでくれないかな。
柔らかい枕で耳を塞ぐようにして、顔を押さえ付ける。ルーカスの意識は再び沈んでいった。
しょぼしょぼと目を瞬かせた昴は、早く終わんねえかなあと俯いて欠伸した。
新陽の儀式。
新たな年を迎えて良い一年になるように、と願うのはいい。しかしだからといって、朝早くから起きて、わざわざ山頂に登らなくたっていいじゃないか。観客がいるわけでもないのに、何で山で儀式をする必要があるんだ。第一、朝じゃなくてもいいじゃんか。厳かな気持ちで迎えるはずだぅた新年早々、昴は不満たらたらで儀式が始まるのを待っていた。
儀式といっても、神官が新陽の詩を詠み上げるのを横で聞き、石で作った祭殿に酒を垂らすだけだ。踊るわけでもなし、食事をするわけでもなし。祭殿なら麓の神殿にご立派なものがあるのだから、アレでいいじゃないか。
山頂にいるのは、昴の他に神官の主。千景は留守番という名のサボりだ。留守番役を買って出た時の千景の飄々とした姿を思い出し、余計ムッとした。
そろそろだな、主の声に顔を上げた。日が昇ると儀式が始まる。
「…………」
紫に赤みを足したような色合いの空だった。曙や暁とは、こんな感じの空を言うのだろうか。夕暮れとも違うその光景に、昴の目は釘付けだった。
「……あっ」
日が昇る。
山間から、ゆっくりと頭を見せ始める。もう灯りなんていらないくらいには暗くなくなっていた。夜でも意外と目が見える。そう思っていたが、太陽が姿を見せたことで、周囲が徐々に明るくなっていく様子をじっと眺めていた。
「始めるぞ」
新年の寿ぎを詠う主の揚々とした声を耳に、昴は昇る日をじっと観ていた。
今頃都でも同様の儀式をしているはずだ。一度も参加したことはなかったが、毎年父上や母上、姉上、神学院……の人たちが盛大に儀式していた。
2年前、ここで暮らすことになるなんて思いもしなかった。都を出るという発想すらなかった自分は、今、田舎の山の上で、たった二人で新年を迎えている。
この暮らしに慣れたわけじゃない。都にはまだ帰りたくない。
ただ、今日くらいは、この杓子定規な神官や麓で帰りを待っている千景の言うことを聞こうと思った。