お題『風に乗って』
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穏やかな春の陽気。涼し気な風。ふかふかの芝生。湿度も……うん、高くなくてカラッとしている。ここ数ヶ月で1番の天気だ。
私は家の近くの丘にやって来て、ひとり満足気に頷く。
「よし」
私はほんの少し勢いをつけて芝生に倒れ込んだ。思ったほどクッション性は無かったが、それでも芝生は私を受け止めてくれる。
仰向けに転がると、私はそっと目を瞑る。太陽は眩しすぎず、全身にほんのりと熱を与えてくれる。
「あぁ、良い天気だ」
あまりにも穏やかな時間が流れる。心地良さのあまり、私はいつの間にか微睡んでいた。
夢の中で私は、空に浮かんでいた。空を飛ぶのではなく、浮かぶ。自分の意思で動くことはなく、ふわふわと空に浮かぶ。
私の横を鳥たちが忙しなく飛び、地上を見ると人々があくせく働いている。
でも、私は空に浮かぶ。ふわりふわふわ、ふわふわり。私は風に乗って、ゆっくりと穏やかに動いていく。どこを目指す訳でもなく、風に乗って、どこまでも、どこまでも。
大きな大きな海の真上まで来たところで、幸せな微睡みから、ゆっくりと意識が浮上してくる。そっと瞼を開くと、太陽の優しい光が目に入る。
体をゆっくりと起こし、持ってきていた魔法瓶から温かいスープを注ぎ、一口飲む。
「明日からも、がんばろう」
「おはよう」
寝ぼけ眼の彼女に、僕は少しぎこちなく朝を告げる。
「……おはよう」
彼女は僕から目を逸らしながら、不機嫌を伝えるようにボソッと呟く。
やっぱり、昨日の喧嘩がまだ尾を引いてるか。
僕と彼女は昨日、喧嘩をした。喧嘩の理由はとても些細なことだ。付き合って5周年の記念日に、何処に行くかという話で喧嘩をした。僕は何年経っても思い出せるように、最高の一日にしたくて、旅行を提案した。けれども彼女は家でずっと一日一緒にいて、二人の絆を再確認する日にしたいと言った。
どちらもお互いを、二人の関係を大事にするが故の考え。だからこそ、互いに譲れなかった。数ヶ月ぶりの真剣な喧嘩だった。
それでも僕達は朝の挨拶は欠かさない。
『おはよう、は絶対に言う』
これが僕たちの間の唯一のルールだった。どれだけ忙しくても、どれだけ喧嘩しても、おはようだけは絶対に言う。それが同棲し始めて直ぐに決めた僕たちのルールだ。
挨拶をしたから、僕の口からは次の言葉が自然に転がる。
「コーヒー、飲む?」
「……飲む」
ミルクは無し。角砂糖は1つ。隠し味にほんのり練乳を入れる。二人お揃いのカップに入れたコーヒーを彼女の前にコトリと置く。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「……昨日は、ごめん」
しおらしく俯きながら呟く彼女は、いじらしくて本当に可愛い。
「こっちこそ、ムキになってごめん」
「ん」
「行き先はまた今度、落ち着いて話そっか」
僕らにあるのはささやかなルール。それでも、そのルールが僕たちの関係性を守ってくれる。
朝、おはようを言える。それだけで僕達はいつだっていつも通りになれるんだ。
朝目を覚まして、野菜ジュースを1杯。顔を洗って髪を整え、制服に袖を通す。目玉焼きを乗せたトーストに、塩胡椒を振ってかぶりつく。
手早く朝食を済ませて、昨夜の内に支度を済ませておいたスクールバッグを手に取り、玄関に向かう。
いつもの靴に足を入れ、小さく行ってきますと呟く。
扉を開けると春の風が髪を揺らし、朝日が僕を照らす。
「お、おはよう」
下手な作り笑顔の君は、それでもいつも通り、そこにいた。
「おはよう」
返す僕の声は上擦っていなかっただろうか。笑顔は不自然ではないだろうか。
自転車に乗った学生が僕たちを軽やかに追い抜いていく。学生たちの喧騒は遠くに聞こえる。
僕達は、ゆっくりと歩みを進める。
「良い、天気だね」
「そうだね」
「「……」」
油が足りない機械みたいに、僕たちの会話はぎこちない。昨日までと何も変わっていないようで、全く違う。
決定的な違いが、昨日、生まれてしまったのだ。それでも、それでも僕には普段通り振る舞う義務がある。昨日の出来事なんて、些細なことだったのだと、何も変わらないのだと、何気ないフリをしなければならないのだ。
僕は、昨日、君の恋心を、無下にしたのだから。
君から友人まで奪う訳にはいかないのだ。
私は君が好きだ。
仕草が好きだ。しなやかに伸びる白魚のような手で、繊細にティーカップを持ち上げる。そして艶めかしく紅茶を飲むその様は芸術のようだ。
笑う顔が好きだ。満ち溢れた自信が表れる、人生を謳歌している者にしか出来ない笑顔。その笑顔に、全てのものが惹き付けられる。
歩き方が好きだ。気取った歩き方でありながら、実に様になっている。考え尽くされた歩き方なのではとさえ思える。
容姿が好きだ。神が創りたもうたと言われても疑う余地のない完璧さ。そしてそれを更に美しく演出する洗練された服装。君は自分を理解している。
「あぁ、会いたいな……」
会うことが叶えば、どれだけ幸せなのだろうか。
大好きな君に────
私はゆっくりと手を伸ばし、君のその頬へと触れようとする。しかし、指先から返ってくるのはひんやりとして硬質な感触。
私は大きな鏡を見つめながら、自身が身を置かれた悲劇に想いを馳せる。
鏡越しに私と指先を触れ合わせる君も、悲しそうに顔を歪める。その顔すらも愛おしい。
「あぁ、どうして君は、私なのだろうね……」
題 「物憂げな空」
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「今までありがとうございましたっ!!」
鼻をすすりながら、勢いよく頭を下げる学生たち。
あぁ、彼らは確か野球部の部員だったか。とするとその前にいるのは顧問の先生だろう。
そのまわりにも、白い胸花をつけ、誇らしげに、あるいは切なげにしている学生服の少年少女。彼ら彼女らはまさに輝かしい人生の1ページを刻んでいる。
僕も本来ならば同じ立場であるはずなのに、僕の心にあるのは居心地の悪さだけだ。あまりにも場違いで、息が詰まる。
胸に付いた偽物の花も、ただの紙切れを入れた仰々しい筒も、何もかもが空々しい演出に見えてしまう。
別れを惜しむように言葉を交わし、自分を忘れないでくれとアルバムに寄せ書きする。それが別れに、門出に浸ろうとしているように見えて寒気が走る。
僕は彼らに背を向けて、一足先に帰路に着く。校門を出て、胸花を外し、卒業証書を鞄にしまう。大きく息を吐くと、ようやく胸が少し軽くなった。
憂いを帯びたような夕焼け空に、僕は自分の居場所を見つけたような気持ちになった。