ぼくが君に気付いたのはほんの少し前のこと。
微かに聞こえた声に耳を凝らした先に君がいた。
君はぼくも君を見ていることに気付かずに、ぼくに語りかける。真っ暗で、月明かりだけが君と君のいるベランダを照らしている。
「綺麗。わたしもそうなれたらいいのに」
そう言って哀しそうな顔をする。
そうか、君はまだ知らないんだね。
君が綺麗と言ったぼくは、君だってこと。
ぼくは昔君だったし、いつかは君になるってこと。
君は昔ぼくだったし、いつかはぼくになるってこと。
そして君の中に、ぼくのカケラがいること。
ぼくの中にも君のカケラがあって、
君とぼくは同じだってこと。
そしてぼくは思い出す。
ぼくも、君とぼくが同じだと知らずに泣いたことがあったな、と。
思い出した時にたったひととき瞼を閉じて、開けた時には君はもうどこにもいなかった。
またいつか君の声が聞こえるだろうか。
何千年、何億年か後にまた君の声が聞こえても、ぼくはきっと覚えているよ。
その時はどうか、幸せにぼくを見つめる君でありますように。
───「見つめられると」
「この道を行けば、帰れるの?」
誰にともなくそう呟くと、薄暗がりの中ぽう、ぽうと淡く灯篭が灯った。
彼女の言葉に応えるように、頭上の月が揺れる。揺れた月から溢れた滴が、小雨に濡れた路に落ちて音が鳴る。
音は重なり、彼女の耳へ言葉となり辿り着く。
「.....君に逢いたい。けれど、君には役目がある。この先に来てはいけない。戻るには、まだ少し早い」
「分かってる。でも、ここはとても重くて、悲しくて、散らばってしまいそうなの」
酷く懐かしいようなその声に彼女は想う、これはただの水音か、それとも溢れた滴が魂を弾いた声か。
耐えきれず、一歩足を踏み出す。すると声は足もとの水音に揺れ、彼女の耳から遠ざかる。
「行かないで、お願い」
淡く灯っていた月へと続く灯籠の光が、ほう、ほうと萎んでいく。
「千年経ったら、必ず君を探して迎えに行く。約束だ」
遠ざかる声が哀しくて、彼女は泣いた。その声も少し泣いているように聞こえて、彼女はこの哀しみが自分だけのものでは無いことに少し安堵した。
「千年.........」
それは長き刻か、短き刻か。
彼女は、灯りが消えた路に立ち尽くす。
闇の中に優しい小雨の音が満ちていた。
小雨に濡れた路を照らす銀色の光に思わず頭上を仰げば、淡く光る月の周りだけ雲が晴れていた。
──「My Heart」
診察を待つ間、病院に併設されているカフェでコーヒーを飲んでいる。
カフェの一人用カウンターは大きな窓から病院の庭が見え、庭ではお散歩中の園児たちが楽しそうに遊んでいる。
どれだけ晴れ渡っていても病院という場所の担うさびしい空気に彼らはやはり異様で、彼らのいるそこだけが生命に愛されているような錯覚を覚える。
私も、生命に愛されているだろうか。
生きていることを、誰かやなにかが祝福してくれているだろうか。
一口含んだコーヒーの苦味が、一瞬憂鬱を忘れさせてくれる。
ぼやぼやとそんな事を考えていたら、いつの間にか園児たちはいなくなってしまっていた。
彼らが帰った病院の庭は、思い出したかのようにさびしさをそっと取り戻していた。
私はコーヒーを飲み干し、静かに待合室へ向かった。
──「ないものねだり」