「遠い足音」
西日が差し込む放課後の教室。
そろそろ帰ろうかと身支度をしていると
――「それ、好きなの?」
僕の鞄についたキーホルダーを指さして
君が笑いかけてくる。
いつも大勢の人に囲まれている人気者の君と
初めて交わした二人きりの会話だった。
かすかに遠い足音だけが響く
君と僕以外、誰もいない教室。
夕日が君の笑顔をいっそう輝かしている。
この瞬間を、僕はきっと一生忘れないだろう。
「モノクロ」
毎週木曜の5限は美術の時間だ。
__「隣の人とペアになってお互いをデッサン
してください。」
今日の課題は隣の人を描くことらしい。
昔から美術は好きだったが、高校に入ってからは
この授業の時間がもっと好きになった。
美術室での席順は名前順のため、席替えが頻繁に
行われる自分の教室と違って、君がずっと隣にいる
からかもしれない。
じゃあよろしく、とお互い何となく会釈をして
デッサン開始。鉛筆でモノクロの君を描いていく。
ふと、目が合った。
逸らすのが何となくもったいない気がして、
そのまま見つめていると君の頬が少し赤くなった。
__「そんなに見られると緊張するよ」
いつもは余裕があってかっこいい君が、
照れくさそうに視線を外す。
画用紙に浮かび上がるモノクロの君の姿。
なのに描いている絵が色付いて見える。
あぁ、毎日が木曜日だったらいいのに。
「涙の理由」
美しいと思った。
大学のキャンパスのベンチで、静かに涙をこぼす君を
見て不謹慎ではあるが心を奪われた。
声をかければこの美しい情景が壊れてしまう気がした。
だから自販機で買った缶コーヒーをそっと隣に置き
立ち去った。
あの時、なぜ泣いていたのだろう。
――「ねぇ、聞いてる?」
三十年前の初恋に浸っていた僕は、妻の声で現実に
引き戻された。
どうやら娘が婚約者を連れてくるらしい。けれど、妻はその相手をあまり気に入っていないようだ。
――「じゃあ聞くけど、僕とはどうして結婚したの?」
――「昔ね、何も聞かずにコーヒーをくれたことが
あったでしょ? あれが沁みたの」
あれは気を利かせたわけじゃない。
美しいものを壊したくない、そんな僕の私欲にすぎなかった。そのことは、妻には内緒にしておこう。
「パラレルワールド」
よくゲームに出てくる「分岐点」。
セーブデータを使って、一度目とは違う選択をして
展開を見比べる。あれはワクワクする楽しい。
でも、人生はそうはいかない。
分岐の見比べはできないし、やり直しもできない。
あの時「うん」って言っていたらどうなっただろう。
君の誘いに乗っていたら
今の自分はもっと自分自身に満足していただろうか。
自分の幸せは自分で決めたいのに
「周りと比べた自分」でしか判断ができない。
そんな時こう考える。
ーあの時違う選択をしていた世界線はきっと
今よりもっと最悪で、もっとしんどくて、
場合によっては隕石衝突で破滅している
かもしれないー
だからもし分岐点に戻れたとしても同じ選択をする。
そんな「破滅のパラレルワールド」の想像が
今の自分を少し肯定してくれる。
「僕と一緒に」
信号が青になるまでの間、
隣にいる君と同じ景色を共有している空気感が
とても好きだ。
進んでいた歩みを一緒に止めて
再び一緒に歩き出すという工程も含めて
信号待ちの時間が好きなのかもしれない。
僕と一緒に歳を重ねて
何気ない日常を一緒に作り上げて欲しい。
他にわがままを言わないから
急に逝ってしまったりしないで欲しい。
いろんな表情をする君をまだずっと見ていたい。
そんな君の年齢は10歳で、人間で言うと74歳。
もう少し、もう少しだけ時間を頂戴。
僕と一緒に過ごす時間を
もう少しだけ頑張ってくれないだろうか。