窓越しに見えるのは、いつもと変わらない景色。
いつもと変わらない、なんの争いもない、穏やかで満たされた日々。
それが当たり前だと思い、今までなんの疑問も感じなかった。
それは、些細なことだった。
いつもと変わらない景色の中、いつもと変わらない人や車の波。
その中に、じっとこちらを見つめる一人の少年を見つけた。
どこか見覚えのある少年は、ずっとこちらに語りかけているようだ。
何だろう?と思い体を動かそうとするが、なぜか体が動かない。
気が付くと自分の手足には鎖が繋がれていた。
えっ、と声を出そうとしても、何故か声が出ない。
気が付くと自分の口元にはマスクのようなものが付けられていた。
徐々に意識が覚醒していく感覚があったのと同時に、突然視界が真っ白になり、眩しさのあまり目を眩ませた。
目を閉じ、視界が塞がれながらも、意識は次第にはっきりとしていく。
周りでは慌ただしく動き回る人の声や物音が聞こえる。
そう思っていると、自分に話かけていると思われる女性の声が聞こえてきた。
「--さん、--さん、聞こえますか?聞こえたら目で合図して下さい」
女性の叫ぶような慌ただしい声に、何事かと思ったが、その言葉に促され目を瞬きさせると、女性がまた、大きな声で話し始めた。
「先生、先生!--さん、意識覚醒しました!!」
うるさいな、と思いつつ身じろごうとするが、やはり体は動かないままだ。
「やりましたね、意識を別の生物に移す研究、ついに成功です!」
...意識を、別の生物に?
この女性は一体、何を言っているんだ?
そう思っていると、徐々に目の眩みが落ち着き、視界が開けてくる。
眼前に見えたのは一人の若い女性と、傍らでこちらを観察する初老の女性。
そして、目の前にあった鏡には、自分の体と思われる、毛深いそれはまるでゴリラのような自分の姿が映し出されていた。
赤い糸
「俺の誕生日、何かほしいものない?」
そんなことを息子が言い出したのは、大学の入学式の日のことだ。
「誕生日って普通もらう日なんじゃない?」
息子には生まれつき発達障害があったが、結婚はせず、女手一つで成人まで育ててきた。
「そうだったっけ。でも、いいじゃない。何かほしいもの教えてよ」
息子が私に何かをしようとするなんてことは、今まで無かった事だ。
戸惑いつつ、内心は嬉しかった。
「そう?じゃあ手編みのマフラーでも編んでもらおうかしら」
冗談のつもりだった。
今はそんなものをする時期ではないし、まして手編みなんて。
「それがほしいもの?分かった」
そう言うと、息子はそれきりそのことを話題にすることはなかった。
--そして1ヶ月前後、息子の誕生日
「はい」
そう言って息子が私に紙袋を手渡した。
「なに?お菓子でも買ってきたの?」
ひどい話、私は1ヶ月前の息子の話を忘れてしまっていた。
「いいから、中見て」
息子はそう言って、じっと私の方を見ていた。
息子の行動に、私はようやく1ヶ月前の話を思い出し、そっと紙袋を空け、中を覗きこんだ。
中にあったのは、真っ赤な右手用の、小さなミトン。
私は袋の中に手を入れ、それを袋から取り出した。
「最初はマフラーのつもりで編んでたんだけど...ごめん、何度も間違えて糸が足りなくなって...それで、母さんいつも料理するとき使ってるからと思って」
そう言って息子は申し訳なさそうに、私から目を逸らした。
「そうなんだ」
それだけ言うと、私は息子を両手で強く抱き締めた。
と言うより、声に出すのはそれが精一杯だった。
「ごめんなさい」
突然抱きしめられ戸惑う息子を私はじっと見つめ、
「ありがとう。お母さん、すごく嬉しい」
と涙ながらに言葉を返した。
すると息子は、私の胸の中で、
「今日、母の日でしょ。誕生日でもあるけど、お祝いの日が重なってるから、何かしたいと思って」
と言い、私のことを抱きしめ返してきた。
今日が母の日なんて、忘れていた。
今日までそんな話、しなかったじゃない。
ギュッと抱きしめあった私の手の中には、不格好に形の歪んだ真っ赤な糸で甘れた、息子の愛情がたっぷりのこもったミトンが握りしめられていた。
お盆を迎えた夏休み。
今日は義両親のお休みに、日帰りでドライブに出かけることになった。
両親は定年を過ぎ、私も県内とはいえ嫁いでからは、実家を離れ、夫と娘と三人暮らしをしている。
結婚してから四年、子供が生まれてからは二年。
正直、義両親とうまくやっていけてるとは言い難く、最近は子育てと仕事と、義両親との関わりで、精神的に疲弊してしまっている。
義両親には良くしてもらっているし、色々と援助もしてもらっている。
だけど、だからこそそれが私には苦しかった。
私の育った家庭は裕福とは程遠く、生活保護費で何とか命を繋いでいるような毎日を過ごしているような家庭環境だった。
両親の夫婦仲も良好とは言い難く、喧嘩は日常茶飯事だった。
父親は私が高校生の時に他界した。
原因の一端は、私にもあった。
それからのことは...あまり語りたくない。
そんな私に声をかけてくれたのは、私の数少ない友人だった。
毎日泣いてばかりいた私に、同居を持ちかけ、支えとなる恋人探しもしてくれた。
友人は既婚であり、子供もいた。
訳あってシングルマザーだ。
そんなある日、今の夫となる恋人との出会いがあり、時を待たずして同棲、結婚することになる。
地元を離れ赴くことに不安こそあったが、これで私も幸せになれる、と思ったものだ。
父の墓参りに来たのは、嫁いでから初めてのことになる。
久しぶりに墓参りにやってきた。
強い日差しが照りつけており、セミの鳴き声も鳴り響いている。
もうすぐ夕方、陽の影り始めた入道雲ができていた。
遠くでは蜩の鳴き声も聞こえている。
方向音痴で運転免許のない私は、誰かに連れてきてもらわないと、父親の墓参りすら来ることができない。
額から汗を流しながら、久しぶりに見た父の墓を綺麗に磨き、上から水をかけた。
「お父さん、ただいま」
私がそう言うと、義両親は少し間を置いて、
「私達もご挨拶させてもらっていいかい?」
と、私に声をかけてきた。
私が会釈すると、義両親は静かにお墓に手を合わせた後、私に向き直り、
「じゃあ、帰りましょうか」
と言って車に乗り込んだ。
帰り道の道中、夕立の降りしきる車内で義母から、
「今日は、ドライブ付き合ってくれて、ありがとうね。私達も、ずっとあなたのお父さんにご挨拶したいと思っていたんよ。あなたとも、もっとこうして時間を過ごしたいと思っていた。これからはあなたも私達の大事な家族なんだから、なんも遠慮なんかしなくていいからね」
と言葉をかけられ、私はただ、ずっと涙を流していた。
家に着く頃にはすっかり日が沈み辺りは真っ暗だったが、雨は止み、私の涙も止まっていた。
これからは義両親とも、今までよりうまくやっていけそうな気がしていた。
入道雲