“この道の先に”
おそらく、結果的には平均7割といったところだろう。一つ前のテストは平均8割だった。が、今回は、なぜだろう、気が緩み過ぎている。「きっと今回もできる」という気持ちが邪魔をする。
「君はできないよ、しっかり勉強しなさい」
と叱ってくれる誰かが欲しい。
誰かが、と勢いで前述してしまったが、私はきっと彼だけに言われたいのだ。いつも優しい言葉ばかり掛けてくれる彼に、私の気持ちを正せるような言葉を掛けて欲しい。それがたとえ、厳しい言葉だったとしても。いつも丁寧な言葉で会話をしてくれる彼に、今回だけは乱れた口調で話してほしい。彼の言葉を聞くと、日本語とはこんなに美しいものなのかと思わせられる。彼の紡ぐ言葉たちを、私の母国語として聴けるのがどれだけ幸せなことなのだろうか?と、考えさせられる。
彼の魅力の根源は、才能と努力の結晶だ。これは、彼に限ることではなく、全ての人間に言えることだ。努力が全てでもなく、才能が全てなわけでもない。その2つが合って初めて、人に「素敵だ」と感じさせる。こんなに素敵な彼を、諦めることも、離れることも当分できないだろう。それらが全て、彼と私の道の先で、結ばれる運命でなかったとしても。
“日差し”
今日はいつもみたいに、「私の日差しは君だ」とか言える余裕はない。わたしの心に、余裕が無い。
私は、頭の悪い人が嫌いだ。ただ、自分の身の丈を理解している人ならば、どれだけ頭が悪くても好きだ。けれど、自分の頭が悪いのにも関わらず、他人のことも鈍物として扱うのは違うだろう。同じ程度の頭の悪さの人間も、それ以下の人間をも貶めるのは違う。ましてや、自分がそれらを言える立場ではないと、理解できていない。それが、身の丈を見誤っているのだ。
4月にクラス替えをして、7月になってやっと分かった。友達になる人間を間違えたのだと。私が嫌いな人間と友人になってしまった。合わない、というか、合わせられないと思った。生理的に苦手とはこういうことなのかと、痛感した。私はあの人が嫌いだが、向こうには嫌われたくない。一度突き放してしまえば良いものを、私の勝手な悪循環が駆け巡る。そんな悩みを抱えながら眠りにつき、いつのまにか朝の日差しが私を招く。またこの憂鬱な光が…、起きなければいけないのか、また、か、。
いつになれば、この憂鬱な日々には終わりが来るのだろう。誰が私の光となり、朝の日差しをも愛おしく招けるのだろう。そんな日々が来るのかどうかすら怪しい。ただ、どうか、平穏な暮らしをさせてほしい
“窓越しに見えるのは”
今日もまた雨が降っている。湿気も風邪も強い。こんな中部活をして、しかも帰り道を歩かなければならないのか、。今日は月曜日なのに、なんとも憂鬱すぎる、、、。
ー バチッ ー
ここでなんと、停電した。目の前がはっきり見えないし、不安で心はいっぱい。こんなにツイていない日があるものか、。顧問はもう今日は部活をやめよう、帰ろうと言った。みんなそれに従い、部室を出た。外に出ると、職員室の窓から顔を出す教員が居た。こんな時に危ないだろう、何をしているんだ…。
よくみると、それは、彼だった。わかった瞬間心が躍った。彼もまた、わたしと同じ景色を眺めていたのだ。そして彼は、「停電かぁ…目がちかちかしちゃうよ」と言った。どうして、彼は、こんなにも愛おしい言葉を発せられるのだろう。
また新しい愛おしすぎる言葉を更新できた。土砂降りだろうとなんだろうと、彼さえいれば幸せで心はいっぱいになるのだ。彼を思い出す帰り道はとても明るく、明日の私をも照らしてくれた。こんな日々が続けば良いのにと、ないものねだりを浮かべてみる
今日は、日記のような思い出作りではなく、全く新しい物語を綴ろうと思う。拙い部分があると思うけれども、しがない女子高生のお話しだと思って、最後まで一緒に物語を終えていただけると嬉しいです。
“赤い糸”
可愛いとは、なんだろう?大切とは、幸せとは、愛おしいとは、一体なんなのだろう?その言葉の意味ではなく、人はどういうときにそう思えるのだろう?
愛玩動物を見ている時もまた可愛いと思うが、愛おしいとまでは思わない。家族と時間を共にしている時もまた、これが幸せで大切な時間なのだろうと実感するが、この時が愛おしいとは、まだ思えない。私はどこか欠けていて、全てにおいて未熟なのだろう。そして私は一体、なんなのだろう?アイデンティティが声高に叫ばれるこの社会の中、どうやって自分を確立していけば良いのだろう。鬱状態に陥った今、なにも心躍ることが思いつかない。気付けば薬の袋が散らばっている。誰か私の未来を照らしてはくれないものか。わたしの赤い糸を導き、未来を与えてくれないものか。
気付けば日は暮れて、夕日と数日前に用意した縄が私を招く。治らない自傷行為の跡から滲む血、これはいつ治るのだろう。けれど、このおかげで何日間か生き延びられたのだから、これこそ私の良い未来だったのかもしれない。
その未来というのは、血に塗れた腕で力一杯に縄を結び、それを首にかけること。力を込めたせいで傷口が割れてしまい、綺麗だったはずの縄にまで血が着いてしまった。私の赤い糸の相手は、天使だったのかもしれない。汚い人間達よりもよっぽど眩しい、純白の天使。薬を過剰摂取できたおかげで、暖かい縄の中でふっと力が抜ける。この人生の中で1番の過ちを挙げるとすれば、天使が恵んでくれた赤い糸を、紅い糸に汚してしまったことだろう。
“入道雲”
この文字を物語に入れるということは、きっとその後に嫌なことが起こるんだろうな。少なくとも、「筆者の中ではの話」だけれど。
わたしの中で入道雲が現れる時は、きっとその後に彼や君に嫌われるとか、非常識だと思われるとか、そういうことが待っているのだろう。けれど、わたしのその不幸を、彼や君の好きな人が見たとしたら。あぁ、やっとあの邪魔者が消える。と思えるのかもしれない。別にそれはいいけれど、私がここで言いたいのは、人の不幸は、人の入道雲は、たまに人を幸せにできるのかもしれないということ。そうやって世界は今日も回ってくれているのかもしれない。理由はどうであれ、そのおかげで今日も誰かの幸せが築かれているのだとしたら、わたしの不幸くらい、別に何度あってもいいか!と思えてくる。きっとこの先わたしに訪れる入道雲も、誰かが幸せだと思うのかもしれない。もしくは、わたしの中で悲観してしまっているだけで、他の人からしたらなんともない出来事なのかもしれない。そう思ったら、この暗闇に埋もれた鬱状態も、いつかの躁状態を励ましてくれるのだろう。
所詮、わたしの物語は、「私の中での話でしか」ないのだ。幸せだと思うのも、不幸だと思うのも、判断するのはわたしなのだ。その物語を全て終えた時、ただ晴れた1日を終えたような、そんな暖かい気分でいたい。