私の事業部では、PCのタッチ音が響き、時折ファクシミリが稼働する音のみ。
とても静かだ。
隣は営業部の為、電話や出入りの雑音が多く騒がしいが壁一枚挟むだけで別世界だった。
以前は周りの人の気持ちに左右される職場だった為、辟易していた。ここでは「仕事」をしていればいい。こんなに楽な事はない。
元々、第三セクターだった会社が完全民間事業者となっている為、辞める人間も少なかった。むしろ、私のような中途入社が珍しい。
会話もなく淡々と仕事をこなし、独りの自宅へ帰る。
朝起きて、電車に乗り出社。
同じ、繰り返し。
それでいい。それが、いい。
仕事帰り、本屋である本を立ち読みした。
そこには「人生で起こる事は、どんな理不尽で辛い現実も、自分で選んでいるシナリオである」と書いてあった。
そう、私は選んでいるのだ。
題:やるせない気持ち
当時中学生の私は、世の中の全不幸を背負っている様な顔をして、自転車を漕いでいたと思う。
家も町も学校も、同級生も大人も、見えるもの全てを憎み、何よりも自分自身を殺したいと思っていた。
今でも、自分の事は汚く感じ、いつしか来る「死」を保険にして生きている事に変わりは無いけど。
つい先日、唐突に。
母が、死んだ。
正確には死んでいた。
蒼黒く紫になった身体。眼は落窪み、鼻から虫が出入りする。死の臭いは私を包んだまま離れない。
父を看取り、母を見送り、そして近い将来、これから妹を看取る運命。
「もうこれ以上、輪廻転生したくない。だから…これが最期なら…落ち着いたら、好きに生きよう」
だから、今。
私は、何処かの小高い路地の上から、足を広げて髪を靡かせ、風を作りながら自転車で駆け下りる夢を見ている。
題:自転車に乗って
「ゼンウナ。お前の見える限りの土地全て、うちの土地だ」
幼い頃、祖父に抱っこされて聞いた低く響く声は忘れない。
ゼンウは幼名で、愛称の呼称として語尾にアやヤ、ナを付ける。
「いいか。勉強は一生するもんなんだ」
私は不思議そうに、髭の生えた祖父の顎を見上げる。
「そして、潔癖で誠実であれ。そうすれば、おのずと開ける」
確かに祖父は潔癖だった。御膳の箸が曲がっている事も嫌っていた。
「お前が男の子だったらな」
何度言われただろう。
畑を耕し続けた大きなふしくればった手に抱かれ、私は眠ってしまっていた。
いつしか祖父も亡くなり、私は大学を出て、日本人の男性と結婚し日本で暮らしていた。
今でも思い出す。
ラジオから流れる当時の韓国の歌謡曲と共に祖父に抱かれて眺めた山々を。
祖父の期待に応えられているだろうか?
題:君の奏でる音楽
ChatGPTに尋ねてみた。
・「世間では」等、カテゴライズされたものに時々疑問を感じるのはおかしいでしょうか?
Answer
「世間」という言葉には、確かに「常識」や「普通」といった一般的な価値観や期待が含まれています。しかし、その「常識」や「普通」は時代や文化、地域、さらには個々人の経験によって異なることも多いです。ですので、それがよく分からないと感じることは全く不自然ではありません。
また、「世間の常識」は必ずしも絶対的なものではなく、むしろ多くの人が何となく共有している認識に過ぎないこともあります。だからこそ、自分自身の価値観や感覚が「世間」と違うと感じることがあっても、それはあなた自身が個性的で、自分の道を歩んでいる証拠とも言えるでしょう。
時には「世間」に合わせることも必要かもしれませんが、自分の感覚を大切にし、他人に惑わされずに自分の価値観に従うことも大切です。もし「世間」と自分の考えが合わないと感じるときは、それを考える機会と捉え、自分が本当に信じるものや、自分にとっての「常識」が何なのかを見つめ直すことができるかもしれません。
私にとっての当たり前をChatGPTが言語化してくれた。こうして文字になると不思議と安心できる。
「それぞれ」だから美しい。
題:蝶よ花よ
人ってさ。
ある日突然死ぬんだ。
題:鐘の音