排泄と簡素な食事以外は、ベッドの中で丸まったまま一日を過ごし、日曜日が終わろうとしていた。
職場のことが少しでも頭に過ぎると、鉛のように重いものを胃の臓腑に感じて、気持ち悪くなる。
何処の職場でも、人間関係のいざこざがあることは理解している。
その、人間関係に労力を割くことには、ほとほと疲れた。
「角が立つから」もちろん意思表示はしない。
何も言わず、ひたすら就業時間が終わるのを待つ。
そんな明日を迎えなければならない。
カーテンを閉め切ったままの部屋は、今にも泣き出しそうな空の色をしていた。
ふと、カーテンの隙間から、丸い月が見えた。
立ち上がり3階のベランダから外を眺める。
月の下には、星屑のような家々の灯りが揺らいでいる。
広い世界の中のちっぽけな自分。
自分のことなど、誰も気には止めていない。
急に、突き刺すような風が吹き、髪を撫で通り過ぎた。
誰かに背中を押された気がした。
…仕事、辞めよう。そう、心に決めた。
ネット上の言葉だった。
「今の時代、子どもを作るのは、バカか金持ち」
かなりの数の「いいね」がついていた。
「バカ」と「金持ち」の差は、単純に環境だろう。
身の丈に合った選択が必要だ、ということ。
本当に正論だと思う。
そう、これからの時代はみんな利口であるべきだ。
年月が経ち…年老いた私は、自身の部屋のベッドにひとり横たわっている。
私の横には、介護用のAIが家族として座っている。
煩悩とは。
心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望。
※グーグル日本語辞書Oxford Languagesより
「愛」も煩悩のひとつ。
ふとんを干してから、取り入れた時の匂い。
あたたかくて、やわらかで。
太陽の匂い、と幼いころより認知していた。
包まれるような、安心する匂い。
大好きだった。
今はもう、嗅ぐ事は出来ないけど。
初めて、心から好きになった人の背中も、同じ匂いがしていた。
家族の為。
大袈裟ではなく、本当に家族の為。
資格も取得し、管理職までになった。
だが、ある日辞令が下りた。
地方都市への異動。要は必要がないという事。
娘は高校生になったが、日頃より留守がちだった自分は空気以下の存在。
どうやら妻は、パート先の男と恋仲らしい。
冷蔵庫の中に、自分の好む物は何も無い。
どうだろうか。
「家族の為」と大義名分をかざして、家族から目を背け続けた自分が、今更抗ったところで何になるだろう。
「相手にされてない」
ただ静かに冷蔵庫の音だけが、ブーン…と鳴る。
それは、自分自身が家族に行ってきた事ではないのか。
今更…
「…なんで?早いじゃん」
何も無い冷蔵庫を開けながら、高校生の娘は言った。
妙な間合いの後、暇だから炒飯作るよ、と答えた。
何も無い冷蔵庫を開けながら。