煩悩とは。
心身にまといつき心をかきみだす、一切の妄念・欲望。
※グーグル日本語辞書Oxford Languagesより
「愛」も煩悩のひとつ。
ふとんを干してから、取り入れた時の匂い。
あたたかくて、やわらかで。
太陽の匂い、と幼いころより認知していた。
包まれるような、安心する匂い。
大好きだった。
今はもう、嗅ぐ事は出来ないけど。
初めて、心から好きになった人の背中も、同じ匂いがしていた。
家族の為。
大袈裟ではなく、本当に家族の為。
資格も取得し、管理職までになった。
だが、ある日辞令が下りた。
地方都市への異動。要は必要がないという事。
娘は高校生になったが、日頃より留守がちだった自分は空気以下の存在。
どうやら妻は、パート先の男と恋仲らしい。
冷蔵庫の中に、自分の好む物は何も無い。
どうだろうか。
「家族の為」と大義名分をかざして、家族から目を背け続けた自分が、今更抗ったところで何になるだろう。
「相手にされてない」
ただ静かに冷蔵庫の音だけが、ブーン…と鳴る。
それは、自分自身が家族に行ってきた事ではないのか。
今更…
「…なんで?早いじゃん」
何も無い冷蔵庫を開けながら、高校生の娘は言った。
妙な間合いの後、暇だから炒飯作るよ、と答えた。
何も無い冷蔵庫を開けながら。
当たり前の事だけど、歳を重ねると、沢山の病気にかかり、沢山の出来ない事が増える。
喪失体験も数多くし、思うようにならない身体の上に、心すら思うようにはならない。
「自分がこんなになるなんて、若い時には、想像もしてなかった」
「こんなはずじゃなかった。どうして自分が」
そう感じるのに、年齢制限は無い。
みんな同じ。
積み重なった枯葉は、いつか腐葉土になる。
歳を重ねた分だけ、積み重ねたものがある。
私は言う。
あなた方が生きた年数分、尊敬すると。
あなたのお気に入りになりたかった。
後ろから聞こえる、あなたの低くて響く声。
後ろの席に座るあなたに対して、どれだけ声を掛けたかったか。
プリントを配る時、腕まくりしたあなたの腕、手、指、血管を見てはどきどきした。
もちろん、あなたとは違う進路を辿る。
これでさよなら。
卒業式の日。
僕は、遠くから彼を見つめたまま、校門を後にした。