テーマに関係なく、今一度、文章について見つめ直しました。そして、今日いちにち、ブラッシュアップを続けました。私の作文を読んでくださる方、お気に入りに登録痛どいている皆様は、その変化に気がつくことと思います。
これからは、より読み易く、より没入感と読後感に浸れる作文を作って参ります。どうか、生暖かく見守って頂けますと、心より嬉しく思います。
身を焼くように、それでいて包み込んで蒸されるように苦しめる夏の盛り。あちらこちらで、数え切れないほどの営みが続いている。ここ、海の見える山手の現場もチクタクと時を紡いでいる。
重機が砂埃をふわりと巻き上げ、大型ダンプトラックの荷台に土砂を積み込んでいる。重機のバケットが地面を掬えば、穴は更に大きく、深く、口を広げていく。旋回すれば、すくい上げた土砂がパラパラと落ちて辺りに積もっている。オペレータはエアコンの風を受けて、服がさざ波のように揺れている。ダンプトラックの運転手が涼を得ようとか、車外の音を聞こうとしたのか窓を開けた。束の間、積み込み作業で立ち上がる砂埃に慌てて窓を閉める様子に私は堪えきれずに笑う。気づかれないように手で顔を隠した。ふと、二人に目を戻すと閉じられた車内で何かを口にしていた。きっと、夏の嫌な風に愚痴をこぼしている。
少し離れたところでは、型枠大工の親方が部下たちと共に手すり壁の型枠を組み立てている。まるで、ドラムで演奏を奏でるように、リズミカルにハンマーを振って釘を打ち込んでいる。時折、親方と部下の二人で大きな型枠を持ち上げては眉間にシワを寄せる。額や頬に汗の筋が光る。不意に吹き付ける砂混じりの風に、堪らず背を向けて腕で顔を隠している。何も無かったかのように黙々と釘を打つ親方に、イタズラな笑みを浮かべた部下が脇腹を小突いてちょっかいをかける。笑いながらも諌めるように部下のヘルメットを軽く叩く親方の目は、太陽のようにギラギラしていた。
距離を置いてそれぞれの作業の様子を見ている私の元に、遠くで立ち上る砂埃が風に運ばれてきた。少し強い夏の風に身体を熱せられ、風とともに空を舞う小さな砂粒が肌を打つとチリチリと痛む。今すぐどこかへ身を隠したいものだが、現場監督として、施行の状況を写真に納めなければならない。暑さと砂風に、挫けそうになる心に、仕事の責任だけが涼しい顔をして乗っかってくる。
風が止む。重機作業に目を向けると、低く唸るような音を立てて、ダンプトラックへの積み込み作業をしていた。その度に、土砂がバケットから落ちる音が鉄の箱を叩く。
重機オペレータとダンプトラックの運転手は、ドアも、窓も閉めて砂埃から身を守っている。オペレータは、ガムのボトルから二粒のガムを口に放り込む。そうして、スマートホンの画面を一瞬だけ睨むと、表情を曇らせた。ダンプトラック運転手は、無線を片手に何やら楽しそうに談笑している。他の運転手と、今日の天気に文句合戦でもしているのだろうか。
型枠大工の職人たちが「タン、タン」と心地の良い木材を叩く音を響かせ、たまに親方と部下の掛け声や笑い声が現場の雰囲気を明るくしている。夏の昼下がり、焼けるような日差し、まとわりつく湿度。そこに、吹き付けてきた砂埃と混じって、肌に残る汗が嫌に気持ち悪い。現場をぐるりと巡回すると、敷鉄板が敷かれた場所は一段と暑く、BBQができるのではないかと思うほど鉄板が熱せられていた。焼けた鉄板に足を乗せた瞬間、笑うしかなくなる。空は容赦なく、ただ真っ青だった。呑気に浮かぶ雲に、私は皮肉を投げる。苦虫を、嚙み潰すように。
蝉の合唱がけたたましく鳴り響く。どこまでも青い空に、分厚く、重たい積乱雲が遠くで流れて、それに合わせて温められた風が現場全体を吹き抜けていく。
ギラギラと照りつける日差し。建物や立木から伸びる影もいよいよ短くなり、日が真上に上がった頃、水を得た魚のように、いや、油膜に一滴の洗剤を落としたように、職人たちが影へと散っていく。その様子とは裏腹に、遅れて休憩にと歩く職人が数人。きっと、土工の職人だろう。ワイワイと笑い合いながら自販機へ足を弾ませている。よく観察してみるとジャンケンをしているから、ジュースジャンケンで誰がジュースを買うことになるのか勝負をして遊んでいるのだろう。サウナのように暑い陽の下で、彼らはきっと、「今日は早めに上がって、さっさと飲みにいこーぜ」と語り合っているのだ。私は、今まさに、彼らが汗に濡れるキンキンに冷えたビールジョッキを、手に持っている姿を連想したのだ。
そして、自販機で買った冷たい缶ジュースやスポーツ飲料を手に、影や屋根下、車や休憩室へ歩く職人たちもまた、首元にかかるタオルで目元や口元を拭いながら歩いている。中には買ったばかりの冷たい缶飲料を額に当てる姿、水道から勢い置く流れる水に頭を突っ込んでいる姿もある。「あぁ、気持ちいい! プールか海にダイブしてぇ」という心の声が聞こえてきそうだ。
この現場、この状況を子供の頃に見た景色で表すなら、水面に撒かれた餌へ、わらわらと群がる鯉たち。その姿がふと、職人たちに重なった。暑さに負けず笑い合う彼らを見て、私は頭をかいて、黙って事務所へと戻った。
汗で沈んだシャツを背に、職人たちは今日も、陽炎をかき分けていく。どこかにある、オアシスを信じて。
午後も、明日も、明後日も。
勢いよく立ち上がる炎に薄い煙がもくもくと上りダクトへ吸い込まれていく。火の加減を調整して少しの油を鍋肌へ広げると、パチパチと軽快な音が鍋を叩き鉄の音と混じっては小気味よい音色を奏でる。
肉を入れ、すぐには触らず焼き色をつけつつ火入れを加減し、次いで野菜を投入して肉と野菜の火通りを合わせる。 さらに火を調整して調味料を入れていけば、美味い美味いと箸のとまらぬおかずがあっという間にひとつ。鍋に熱湯を注いでササラで綺麗にしたならば、もう一度火を強く、しっかりと鍋を温め直す。大匙一杯の油が鍋に馴染めば、たまごを入れて間髪入れず白飯を落とす。米が潰れないようにしながらも米と卵を調和させていけば、たまごのふわりとした香りがコメを包み込んでいく。空気を含ませるように混ぜ合わせ、野菜を追加して炒めていく。塩、コショウ、すこしのガラ出汁と中国たまり醤油で味を整えればあっというまにチャーハンの完成だ。
私は和食と中華が好きだ。作るのも食べるのも、誰かに振る舞うのも好きが故に、北京鍋や広東鍋などの中華料理用のものを一通り揃えて愛用している。もちろん、繊細な和食を作る際にはこれらは使わない。調味料も和食と中華用でそれぞれ揃えているが、そのために調理道具も多い。包丁も和包丁は牛刀と菜切り、出刃と柳刃。中華では、薄刃と中厚刃の中華包丁を揃えている。薄刃は野菜や魚の調理を得意としており、中厚刃は野菜や肉、魚などをオールマイティに調理することができる。加えて、包丁や鉋を手入れするために天然砥石各種取り揃えているが、さすがに手元に揃えた感は否めない。
しかし、思わぬ問題が生じたのである。先般、転居をしたのはいいものの転居先のガス設備がLPガスではなく都市ガス供給の物件だったのだ。私が所有しているリンナイの業務用コンロはLP仕様であるため使用できない。
都市ガス用の業務用コンロを新調すべきか、いっその事バーナーと八キログラムのガスボンベを揃えてしまうべきか悩んでいる。私のフライパンや鍋のうち鉄物がほとんどで、手入れをする時などはバーナーくらいの強く勢いのある火力で手早く終わらせたいが、手にして余りある気がしなくもない。しかし、弁当の作り置きやおかずの作り置きで、定期的に大量に調理をする私にとって妥協のできるところでは無い。どうしたものか。
とりあえず、包丁と鉈を研いで雑念を捨ててこよう。
梅の花、桜の花が香り。土手や河川敷、道端を彩る草花に季節の移ろいを感じ春の訪れを知る。鳥の囀りも、虫の音も、子供や学生の靴の音が朝を鮮やかにして、今年も一年が動き出したのだと思いにふける。
この三月で、昨年の十月より赴任していた工事が無事故災害のもとに竣工出来たのは協力会社、そして職人さんたちの安全意識の高さあってのもの 。施工にあたり、困難に直面することも、どうしたものかと考えをめぐらせることもありましたが、監督と職人さんが一丸となることができたことで遅れもなく達成出来たのだと思います。
現場監督、施工管理の職に就いておりますと協力会社さんや職人さんとの折衝などで心が疲れることがあります。こちらとして無理なお願いをしなければならない時がどうしてもあるのですが、施工を担う職人さんからすれば込み上げてくるものがあるのです。私も職人上がりですからその点は理解しているのですが、頭を下げるしかなく申し訳のない気持ちになります。
本来、施工管理を行う現場監督は作業を行ってはいけないのですが、これは企業が大きければなおのこと厳しく指導をされます。万二一つ、怪我をした時に労働災害として処理が行われるのですが、この時に「なにをしていて被災したのか」が重要になるのです。ここで、監督の業務外である職人仕事などを行っていたとなれば問題なのです。ですから、まかり間違っても職人さんと並んで玉掛け作業 、加工、重機作業などの監督業務に該当しない作業 はしてはならないのです。
かくいう私はというと、もともと職人上がりで重機オペレーターもしておりましたから職人さんの作業状況を見て「 このペースだと工程から数日ずれ込むかな 」というのがよく分かるのです。そう思うや、いても立ってもいられず「工程通りに終われそうです?」と確認をしてしまうんですね。職長さんとしては「うちもよその現場が忙しくて人を入れられないから、厳しいかもしれないな」と答えるしかなく、私も一緒になって喫煙所で悩むことがよくあるのです。
「どうするかな」と会社に電話をかけるも「人は増やせない」 と返された職長さんが眉をしかめるのをみて、「僕にできることなら手伝うので、協力して頂けませんか」と提案するのが常である。こう切り出すと職長さんからは「何ができる? 枠は組める? 土間は抑えられる? 機械は操作できる?」と返ってくる。この問いかけに何度も繰り返してきた答えを私は口にする。私は機械作業もできるし土間も抑えることができるし、型枠も手伝い程度なら できるし、塗装もできるしコンクリート補修もできるしダンプにも乗れるし、舗装も少しはできる 。だから 、「機械も抑えもできるので、手伝いますよ」と笑えば職長も職人さんも笑顔になる。
しかし、一度でも手伝えば「 少しじゃない、めちゃくちゃ仕事できるじゃん。これからも大変な時だけでいいから手伝ってほしい」と声をかけられる。もちろん、私としても上司に相談し許可をいただいた上で、やりすぎない程度に手伝いをしているのですが職人上がりだから楽しくなってしまうのが悪いところだ。気がつけば職長さんたちの頭数に入れられている時がある。評価していただけること、褒めていただけることはとても嬉しい。けれど、監督としてはゼロ点なのだ。
工事の 終わりが見えてくる頃、あるいは協力会社さんの入場があと僅かという頃になると、いつも声をかけていただく。「うちに来ない?」、「いま年収 いくら貰っているの?」 、「最低でも今の年収は保証するから来て欲しい」とお誘いを受ける度にその言葉に 飛び込みたい気持ちが押し寄せてくる。けれど、それはできないのは自分が一番よく分かっている。
私は年に一度、少しばかし恵まれた額の昇給があり基本的には頭打ちはなく、さらに資格を取れば基本給が上がる仕組みなので、年収は少しずつ増えていくし、資格取得で 大きく変動する。だから、お誘いに答えて協力会社さんでお世話になるとそこがネックになる。何よりも、今の年収を最低限保証するというのも、かなりの負担になる。職長や職人さんたちと仲良くなっているからこそ、また仕事が したいと思える。しかし、これは私が監督という立場の上で共にした時間だからこそ感じるものなのかもしれない。何よりも、せっかくここまで作ってきた土台を無駄にするのも忍びない。
先日、三月までの現場でお世話になった舗装屋さんの専務と電話をした際に「何かあったらうちにおいで」と声を かけて頂いた。けれど、私はなんとも答えられなかった。というのも、今の私はつかいものにならなんだ。原因不明の脚の脱力や痙攣、疼痛によって日常生活にさえ難儀をしている。仕事などできるはずもなく休みをいただいて治療に専念しているのだけれど、どんな検査をしても原因が分からないもので何をどうしていいのかも未知なのだ。
神経の損傷が考えられるという 。 三年前にも同様の症状によって半年間も歩行困難になり伏せっていた。それ以降も、それ以前も予兆の様な違和感には気がついていた。歩いていると疼くような電気が走るような形容しがたい感覚が脚を襲えば、膝から崩れてしまう。しゃがんでいる時にそうなれば立てなくなる。胡蝶などなく、人の補助がなければ立てないのだ。
いま、こんな状況 にあって心底惨めだ。会社は待ってくれるという、もし退職したとしても戻ってきたくなれば今の待遇で迎えてくれるという。私は恵まれている。けれど、いまは何よりもこの足が憎いのだ。
春の暖かさも、鳥や虫の音も、サンサンと照らす陽の光も地面を打つ 雨の雫にも、 今の私はひとつとして心動かない。さらに、事情というのか不運というのか 、あることから今年の検定を受けることが出来なくなってしまった。残念で仕方がないが、逆に来年まで勉強ができると思えば良かったと言えるだろうか。
さあ、ここまでつらつらと 話をした 結論ですが、結局のところ何を言いたかったのか。それは、いつ、どんな時に、どんな状況で、どうなるのかなんてのは誰にも分からない。健康に気をつかっていても、私のようにワークアウトが大好きで 、愛していて、筋肉のためにお金も時間も捧げていても、よく分からない病気や怪我というのはついてまわる 。
だから、あなたも気をつけられよ。健康が一番なんだけれども、その健康を維持するには些細な変化に気がついてやれること、不安や不穏因子というのは常に排除しなければ ならない 。私は、いつも感じていた違和感を無視していた。故の結果であり、ざまあみろの典型だ。
美味しいものつくって、たべて、遊んで、楽しんで。喜んで、悲しんで、よく眠って。
心と体は直結しているもので、まずは何よりも身体を大切に 。身体を悪くすると心も引っ張られる。心を悪くすると身体が引っ張られる。
毎日に感謝して、今日を楽しみましょう。
「キズナアイ」がスリープから目覚め、三年前に止まった時計の針が、カチコチと回り始めた。VTuberというものの存在を初めて知ったのは、「電脳少女シロ」がきっかけだったが、強く惹き込まれ、魅力に虜になったのはキズナアイを知ってからだった。
歌もトークも、企画も何もかもが新鮮だった。彼女の存在は生きることに悲観的になっていた当時の私を支えてくれていた。最悪な選択肢をいくつも考えては、理性で間違いが怒らないように律していた。起きて仕事に行き、疲れ帰って眠りにつく。少しの時間も考える隙を無くすようにしていた。そうでなければ、家族を、自分を終わらせてしまうと強く感じていた。なんのために生まれて、どうして今を生きているのか。果たして、今、私は生きているのか。息をして、食事を摂って、風呂に入って暖かい布団で眠る。起きたらばルーティンのように仕事に向かう。これは生きているのとも死んでいるのとも違うのではないか、馬鹿みたいに下らない事で頭が埋め尽くされる感覚すら覚え始めていた。
なんの予定もない日曜日の朝だ。仕事は休みだが何をするでも無く、その気力すらもないが休日も早朝に起きるというルールだけは自分に課して守り続けている。なんの気なしにYouTubeを開いて、再生リストから好きな歌い手の曲を長そうかと思っていたところ目にとまり、私の興味を全て持っていったのがキズナアイ、彼女だった。淀み、霞んでいた私の世界は鮮やかな色を取り戻し、リズムよく心地よいテンポとともにフルカラーに咲いた。
なにかを変えたい、現状を打破したい、打開したい、好きなことをして、好きなものを食べて、自分の周りを好きで埋めつくしたい。そう思うのに、目の前の現実に目を向けた時、私は酷く絶望し落胆しては重く息を吐いていた。そんな私の沈んだこころが、いつまでも行っては返るを繰り返す秒針がチクタクと軽快に時を行きはじめた。
幸せの形はそれぞれあれど、幸せの定義はそれぞれあれど、嫌なことも辛いことも、悲しいことも忘れられる一瞬という時間があれば、私はそれを幸せだと感じたんだ。大それたものじゃない、言うほど特別なことではないけれど、確かに私を励まし、慰める、その短い時間に私は生を実感したのだから幸せと言わずしてなんといおう。
電脳少女シロわキズナアイがきっかけで、その存在を知り、知ったことで生きる理由を見つけた。そして、そこから沼るまでそう長い時間は必要なかった。「にじさんじ」、「ホロライブ」、「あおぎり高校」、「ぶいすぽ!」、「ミリプロ」など多くの箱を、各社のタレントを推すようになった今があるのは彼女たちのおかげだ。そして、電脳少女シロは今も変わらぬ幸せを分けてくれている。古参も新参も隔てない業界が確立され、賑わい、活気に満ち満ちている。
三年前にスリープに入ったキズナアイ、私たちの日常からひとつ、大切な宝物が姿を消した。スリープに入っても彼女のチャンネルには足繁く通った。彼女の歌を聴きたかった、彼女の姿を見たかった、彼女の声に元気をもらいたかったから。
突如としてカウントダウンが始まったとき、身体に電撃が巡ったような感覚が全身を震わせた。カウントダウンとともに、眠っていた間に流れた時間が急速に回り始めたように思えた。そして、また会えるのではないか、とんでもなく嬉しいサプライズが待っているのではないかと興奮が冷めぬままこの時を迎えたんだ。
おかえり
キズナアイ。
あなたの物語がまた始まるのを
今か今かと待っていたんだ。
日本中の、世界中のファンがこの時を切望していたんだ。
また新たな伝説を、記録を作っていってほしい。
誰かを笑顔にする、特別で大切な尊い活動を
心から応援しています。
風邪をひき、一週間かかって治ったと思えば耳下腺が晴れて大変な思いを致しました。こんな状況にあって仕事は休めず、免許の更新も済ませなければならず、それはそれは怒涛の日々でございました。
毎朝四時二十五分に起床し、起きがけに着替えを行った後に丁寧に歯磨きや舌のクリーニングを行い、洗顔をしてスキンケアをこれまた丁寧に済ませる。スキンケア の間にケトルのスイッチを押し、スキンケアが終わればすぐに朝食を頂くことができるよう細やかな段取りも忘れない。そして、荷物を確認したらば五時十五分に家を出る。現在の職場(出張先)は部屋を出て二分で会社に着く。車に乗りこみ、正しくポジショニングを行い、エンジンを始動。ミラーを確認しライトを点灯させ出発。
これは私の単なるルーティンでしかないが、この一連の流れが崩れるとストレスを感じる。これ程まで早くに家を出るのだから遅刻をすることは、まず有り得ない。けれど、出発に十五分の遅れでもあれば頭の中では「まずい、いつもより到着が遅れる。自分的に遅刻だ」 、と焦燥感に駆られるのだ。
現場に到着すると、門を解放し現場を巡回する。その後は書類の用意を済ませたり、一日の段取りを考えては時間をまったりと過ごす。これはどこの現場に行っても変わらぬ事で、私の基本ルールの上に成り立っているストレス対策でもある行動パターンのひとつだ。
現在の現場は今月末で竣工するが、それと共に私もこの会社を後にする。方方から 「うちに入社してくれないか」、とありがたい声掛けを頂く。しかし、私の中でどこか自信がなく、腑に落ちないところがあるのか前向きには考えが及ばない。工期の長い別現場の内定は貰ってはいるが、そちらへ行く気にもならない。いま、私が見ている現場は管理だけでなく作業的なことも自由にできる。もちろん、施工管理を行う現場監督である以上、普通は作業を行うことは褒められることでは無い。
先程の、工期が長い現場はこの春から始まるが、中小企業ではないため作業的なことは一切を行ってはならない。職人上がりの私には、それはとても息苦しいことであると同時に、私が先方の求める人材として見合うのかという自信のなさが、私の足を止めている。
春からの、この現場に入ることになれば給料も跳ね上がる。そうなれば実家のためにこさえた借金も すぐに完済できる 。しかし、それ以上に私の心が負債を抱えていくような気がしてならない。残業なんてのはこの仕事は当たり前であり、私自身も好きなこともあり負担は一切感じない。国交相の工事であるため、土日祝は休工事となるだろう。そうなれば、それらの休みで試験対策も出来るし、趣味に 没頭 できるだろう。けれど、先方はレベルの高い人材を欲している。
聞くところによれば、コンサル各社から先方へ職員のエントリーがあったがすべて書類選考で落としている。面談まで漕ぎ着けたのは、この度の選考で私が第一号。本来であれば、社に持ち帰り審議をして採否が決まる。ところが、面談から半日と経たず内定の報せを受けたのだ。
もちろん、面談のなかで現時点で私ができること、できないこと、得手不得手、仕事への取り組み方や姿勢を伝えたうえでの決定。これ程嬉しいことは無いが、同時に私なんかでいいのかとプレッシャーに押しつぶされそうになっている。先方は私の得意なこと、分野で負担なく業務が行えるように配置をすると配慮をしてくれている。コンサルに身を置いて、大手は今回で二社目だが、前回の大手別会社の時とは話が違う。一人一人に求められる能力が高いのだ。私は即座に契約を解除されるのではと膝を抱えて震えている。
しかしながら、とりあえず先のことは考えるだけ無駄である。杞憂も不安に悩む時間も、心配事のほとんどは実際には起こらない。そして、人生はどのような局面においても「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」、と構えて振る舞うことが大切だ。
人間、生きていればそれだけで儲けもの。命あればとりあえずはいいのだ。命あればこの先の事などどうとでもなる、どうにでもできる。失敗をしようと、何かを失おうと、人の欺きや悪いに虐げられ貶められようと、生きていればどうということはない。
人生、過去を振り返り嘆くは易い。先見えぬ未来に、将来に、どれだけフォーカスを当てられるか。ピントを絞っていくことができるか。まさに今、何ができるか、なにをするのかが要だ。「言うは易し、行うは難し」、この言葉があるけれど私が思うに、これは「考えるだけ無駄である。思ったのならまずはやってみよ」というもの。
何も考えることが悪いことではなく、口にするだけが悪いことではない。いいからとりあえずトライしてみようよというのが、私のスタンス。そこで失敗しても挫けてもいい。とりあえず生きているじゃないか、心臓は動いているじゃないか。
どうにでもなるが、どうにかしなければ、どうともならない。変化は変化させようという力による作用から始まる。ただ立ち尽くしていても、黙って見ていても何も起こらない、何も、始まらない。何も始まらないのだから、理想の先も、終わりもない。
法華経の教えに「還著於本人」という考え方がある。こらは、「還って本人に着きなん」というもので、善い行いは善いものとして、悪しき行いは悪しき事として巡ってくるというもの。人にやさしくしたならば、何かの時に誰かから優しく施しを受けることもあるし、人に不敬でもってぞんざいに振る舞えば、縁は絶え、信用は地に落ち、何かの時の助けなどなくなる。
また、この考え方というのは自身の言行の一つ一つが、自身の未来を分かつとも捉えることができる。自分の努力は、様々な宝として手元に残り続ける。
私はなやみ苦しんだ時、いつもこうして自分を律している。弱虫になることも、泣き虫になることもある。そんな時は私自身が、逃げ腰の私を慰め、背中を押してやる。
もしも、いま苦しいと、辛いと下を向く人がいるならば、まずはそんな自分自身を赦し受け入れてあげて欲しい。対話は相手の手を取るところから始まる。下を向いて、正面のものさえ視界に映らない自分自身に手を差し出そう。その手に自分自身が気がついたのなら、涙に濡れる頬を優しく拭って抱きしめよう。
そうしたら、次にやることはただ1つ。
泣いていた自分と、自分の弱音で自分を押さえつけていた弱虫で泣き虫な自分と、手を振ってバイバイだ。
さっきまで涙していた自分はもういない、手を繋いでブンブンと手を振りながら楽しそうに歩く姿が横にみえるだろう。