-ゆずぽんず-

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風邪をひき、一週間かかって治ったと思えば耳下腺が晴れて大変な思いを致しました。こんな状況にあって仕事は休めず、免許の更新も済ませなければならず、それはそれは怒涛の日々でございました。
毎朝四時二十五分に起床し、起きがけに着替えを行った後に丁寧に歯磨きや舌のクリーニングを行い、洗顔をしてスキンケアをこれまた丁寧に済ませる。スキンケア の間にケトルのスイッチを押し、スキンケアが終わればすぐに朝食を頂くことができるよう細やかな段取りも忘れない。そして、荷物を確認したらば五時十五分に家を出る。現在の職場(出張先)は部屋を出て二分で会社に着く。車に乗りこみ、正しくポジショニングを行い、エンジンを始動。ミラーを確認しライトを点灯させ出発。
これは私の単なるルーティンでしかないが、この一連の流れが崩れるとストレスを感じる。これ程まで早くに家を出るのだから遅刻をすることは、まず有り得ない。けれど、出発に十五分の遅れでもあれば頭の中では「まずい、いつもより到着が遅れる。自分的に遅刻だ」 、と焦燥感に駆られるのだ。
現場に到着すると、門を解放し現場を巡回する。その後は書類の用意を済ませたり、一日の段取りを考えては時間をまったりと過ごす。これはどこの現場に行っても変わらぬ事で、私の基本ルールの上に成り立っているストレス対策でもある行動パターンのひとつだ。

現在の現場は今月末で竣工するが、それと共に私もこの会社を後にする。方方から 「うちに入社してくれないか」、とありがたい声掛けを頂く。しかし、私の中でどこか自信がなく、腑に落ちないところがあるのか前向きには考えが及ばない。工期の長い別現場の内定は貰ってはいるが、そちらへ行く気にもならない。いま、私が見ている現場は管理だけでなく作業的なことも自由にできる。もちろん、施工管理を行う現場監督である以上、普通は作業を行うことは褒められることでは無い。
先程の、工期が長い現場はこの春から始まるが、中小企業ではないため作業的なことは一切を行ってはならない。職人上がりの私には、それはとても息苦しいことであると同時に、私が先方の求める人材として見合うのかという自信のなさが、私の足を止めている。
春からの、この現場に入ることになれば給料も跳ね上がる。そうなれば実家のためにこさえた借金も すぐに完済できる 。しかし、それ以上に私の心が負債を抱えていくような気がしてならない。残業なんてのはこの仕事は当たり前であり、私自身も好きなこともあり負担は一切感じない。国交相の工事であるため、土日祝は休工事となるだろう。そうなれば、それらの休みで試験対策も出来るし、趣味に 没頭 できるだろう。けれど、先方はレベルの高い人材を欲している。
聞くところによれば、コンサル各社から先方へ職員のエントリーがあったがすべて書類選考で落としている。面談まで漕ぎ着けたのは、この度の選考で私が第一号。本来であれば、社に持ち帰り審議をして採否が決まる。ところが、面談から半日と経たず内定の報せを受けたのだ。
もちろん、面談のなかで現時点で私ができること、できないこと、得手不得手、仕事への取り組み方や姿勢を伝えたうえでの決定。これ程嬉しいことは無いが、同時に私なんかでいいのかとプレッシャーに押しつぶされそうになっている。先方は私の得意なこと、分野で負担なく業務が行えるように配置をすると配慮をしてくれている。コンサルに身を置いて、大手は今回で二社目だが、前回の大手別会社の時とは話が違う。一人一人に求められる能力が高いのだ。私は即座に契約を解除されるのではと膝を抱えて震えている。


しかしながら、とりあえず先のことは考えるだけ無駄である。杞憂も不安に悩む時間も、心配事のほとんどは実際には起こらない。そして、人生はどのような局面においても「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」、と構えて振る舞うことが大切だ。
人間、生きていればそれだけで儲けもの。命あればとりあえずはいいのだ。命あればこの先の事などどうとでもなる、どうにでもできる。失敗をしようと、何かを失おうと、人の欺きや悪いに虐げられ貶められようと、生きていればどうということはない。

人生、過去を振り返り嘆くは易い。先見えぬ未来に、将来に、どれだけフォーカスを当てられるか。ピントを絞っていくことができるか。まさに今、何ができるか、なにをするのかが要だ。「言うは易し、行うは難し」、この言葉があるけれど私が思うに、これは「考えるだけ無駄である。思ったのならまずはやってみよ」というもの。
何も考えることが悪いことではなく、口にするだけが悪いことではない。いいからとりあえずトライしてみようよというのが、私のスタンス。そこで失敗しても挫けてもいい。とりあえず生きているじゃないか、心臓は動いているじゃないか。

どうにでもなるが、どうにかしなければ、どうともならない。変化は変化させようという力による作用から始まる。ただ立ち尽くしていても、黙って見ていても何も起こらない、何も、始まらない。何も始まらないのだから、理想の先も、終わりもない。

法華経の教えに「還著於本人」という考え方がある。こらは、「還って本人に着きなん」というもので、善い行いは善いものとして、悪しき行いは悪しき事として巡ってくるというもの。人にやさしくしたならば、何かの時に誰かから優しく施しを受けることもあるし、人に不敬でもってぞんざいに振る舞えば、縁は絶え、信用は地に落ち、何かの時の助けなどなくなる。
また、この考え方というのは自身の言行の一つ一つが、自身の未来を分かつとも捉えることができる。自分の努力は、様々な宝として手元に残り続ける。


私はなやみ苦しんだ時、いつもこうして自分を律している。弱虫になることも、泣き虫になることもある。そんな時は私自身が、逃げ腰の私を慰め、背中を押してやる。


もしも、いま苦しいと、辛いと下を向く人がいるならば、まずはそんな自分自身を赦し受け入れてあげて欲しい。対話は相手の手を取るところから始まる。下を向いて、正面のものさえ視界に映らない自分自身に手を差し出そう。その手に自分自身が気がついたのなら、涙に濡れる頬を優しく拭って抱きしめよう。


そうしたら、次にやることはただ1つ。



泣いていた自分と、自分の弱音で自分を押さえつけていた弱虫で泣き虫な自分と、手を振ってバイバイだ。

さっきまで涙していた自分はもういない、手を繋いでブンブンと手を振りながら楽しそうに歩く姿が横にみえるだろう。

2/2/2025, 1:42:11 AM