-ゆずぽんず-

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10/14/2024, 12:21:01 AM

久しぶりに釣りに行きたいな、釣って捌いて食べたい。久しぶりに行軍に行きたいな、疲れて喉が渇いて辛いのに、そこに生を感じて明日の糧としたい。

今日は疲れたから休みの日でいいか。休みはまったり惰眠を貪りたいから、気が向けば次の休みにしようか。朝から酒を飲みたいし、映画鑑賞に耽るつもりだったから明日でいいか。明日から仕事だし、体力を温存しておくか。

大人になると、とにかく時間を無駄にする。ただただ無意味で無意義に、限りある時間をドブに捨てる。いまこの時は、もう二度と訪れることの無い瞬間であるということを忘れて無秩序に時間を貪る。

歳を重ねることは理解をしていても実感をするのは、凡そ自分に出来ることの数が減った時、そして可能性を自ら過小評価 したときだ。どんな挑戦も、学びも、趣味も遊びも、歳の数に関係なく無限大の可能性がある。そして、それは誰にも当てはまる。

言い訳をするのは簡単で、人は言い訳のためなら無意識に時間を割けるものだ。なんら価値のない時間にこそ人は無意識に時間を注ぐが、これにいち早く気づくことができた時、無限の価値と可能性を見出すことができる。

難しいことでは無い、やればいいだけだ。休みの日、ダラダラといつまでも寝たいものだ。しかし、休みの日こそ普段よりも早く起きよう。何気ない日常に強い変化を感じることができる。散歩へ出かけるもよし、何も考えずコーヒーを飲むも、茶を飲むも良し。身支度を済ませ、シャキリと目を冷ましたならば思い思いのことに時間を活用してみよう。これまでの怠惰に時間を捨てたことを悔やみ、これからは何でもやれると意欲が高まるのを感じるだろう。

眠ければ、小一時間の昼寝を楽しみにして過ごせばいい。早朝からやれるだけのことをやれば、その充実感と達成感は心に余裕と幸福感をもたらしてくれる。そして、それらのあとに昼寝をすれば惰眠を貪るのとは違う格別なひと時を体感することができるだろう。

平日に言い訳をするなら、休日こそ真剣に自分と向き合おう。平日に時間が取れないなら、休日こそ朝早く起きてでも無理やりに時間と意欲を注ごう。休日の趣味の疲れは、仕事へ悪影響与えることは無い。充実感や降伏感、、爽快感も得られるならば週明けの活力になるだろう。

休日こそ全力で休みたいのなら、朝早く起きて掃除や炊事、なんでもいいから早めに片付けてしまえ。驚くほど休みを長く感じるぞ。きっと、それを繰り返していくうちに暇を持て余し、高まった意欲は新しい活動へと自分自身を向かわせてくれるだろう。誰しも目の前には幾つもの扉が、或いは道が開けている。でも、それは自ら見ようとしなければ見えやしない。見えた時、どれを選ぼうとせずとも迷うことなく興味と関心のままに歩み始めているはずだ。

何をしてもいい、どんな過ごし方をしてもいい。どんな生き方も自由で、どのように歩いていくのかも選べるのだ。しかし、決して限りある人生を無駄にしてしまうようなことは避けなければならない。いつの日か、しておけば良かったと悔いるような生き方は避けなければならない。いつだって、何度だってチャレンジはできる。けれど、若かりし頃と年老いた頃とでは可能性こそあれど難易度が上がり、ハードルは高くなり、幅も狭まる。

やってできないことは無い、やればやっただけの価値がある。しかし、やって得られる成果はどれだけ活力を注ぐことが出来たのかによって変化する。活力は誰もが持つが、身体は確実に老いる。酸化防止に、老衰防止に食事を見直しても運動を継続しても体の中の細胞は確実に老いて役目を果たして終わっていく。人の体はその果てにあるのだから仕方の無いことだが、気力と活力で如何にできることに全力を注ぐかで最期の時に得られるものは変わる。

どんな人にも、幾つの人にも時間は平等に流れる。けれど、終の瞬間は皆違う。それがいつなのか、どのような形で訪れるのかなど誰にも分からない。なれば今を無駄にすることなく、流れる一秒一秒に心血を注がなければ、必ず後悔をする時が来る。


幸せに生を謳歌したいのなら、子供のように無邪気に今を生きなければならない。大人は生きていくために、誰かを守るために、養うために仕事をして稼ぎを得なければならない。子供のようには生きられないと感じるだろう、だから休日こそ満喫しよう。充実させようと努力しよう。

子供の頃に、今ほどあれこれ考えて生きていた人は多くは無い。けれど、将来の夢や目標のために全力だった人はとても多い。


大人は要らぬことに頭を使い、要らぬことに耳を傾け、要らぬことに心を壊す。

子供のように行きなさい。私もそうあろうと決めたのだ、生きやすさは自らの手で作り、掴み取らなければならない。


幸せは大それたことではない、ほんの少しの変化から生み出す価値のあるものに過ぎない。

難しいことでは無い。
やってみよう、これから一緒に。

10/13/2024, 3:09:44 AM

点呼を終えトイレへ駆け込めば、同じことを考える同期たちで溢れかえっている。起床ラッパの吹鳴から二分以内に集合と整列を終えて点呼の用意が出来ていなければならず、朝はとにかく忙しない。消灯後は基本的にはトイレに行くことなどは許されず、どうしても我慢ができない時は静かにこっそりと隠れて駆け込んだ。見つかれば叱られる為、我慢をすることになるが朝は早くから班長達が動いているから身動きが取れない。そのために点呼の後にトイレへと急ぐのだが、混雑しているトイレにダムの決壊のサイレンに焦る自分と闘わなければならない。
各班事に舎前に整列して食堂へ早足行進を行うと、部隊の先輩方が挨拶をしてくれる。元気な人や眠そうな人、低血圧なのか倒れそうな人もいるが皆食堂入口から連なる列に並んで様々に会話を始める。私たちもまた、午前の稼業の話をして気持ちを高めて心の用意をしていた。
朝は食の細い私も陸上自衛隊に入隊してからは大食らいに変わっており、高校時分に野球部だった同期は私の倍以上の米を平らげる。おかわりはできないが、最初に装うときに食べたい分だけ盛り付けて席に座るが、食べ残しは禁止なのは言うまでもない。調子に乗って山盛りにした同期は苦しそうにしている。食事を終えて食器を返却すれば、ベッドメイクや課業の準備のために営内へ戻る。
平日は何も無い限りは「揚げ床」と呼ばれる状態、つまり全てを規定の畳み方と重ね方で仕上げる。そして、いま一度身なりを整えて雑嚢に必要なものを入れて班員同士、ベッドバディ同士で確認を行う。0750 ( 07時50分 ) に区隊全員で舎前に集合すれば、総数は凡そ三十名にもなるが課業によっては別区隊との合班になるので六十名程になる。引率学生(または引率班長)が号令を掛け、足を揃えて行進する。
この日、午前の課業は第二キャンブの第二教場で座学と小銃の分結 (分解結合) の予定になっているため、暫く歩くのだが途中で区隊長が声を挙げる。朝から元気に行くぞと、駆け足を行うという。担え銃(になえつつ) から控え銃 (ひかえつつ) へ体制を切り替えれば駆け足の号令が響く。「いち、いち、いちに。いち、いち、いちに。歩調数え! いちにさんしごろくしちはち」 区隊長の掛け声に応えながら食後の重い腹に苦しみながら走り続ける。

昼の食事ラッパが鳴ると少し安堵するのは皆同じなのだろうか、表情が明るくなる。しかし、この日は普段なら笑顔の同期が顔を引き攣らせている。無理もない、顔を引き攣らせているのは入隊前に野球部の活動で膝を痛めている。そして、午後の課業は全て戦闘訓練。気持ちが暗くなってしまうのも頷けるが、私は彼に励ましの声をかけて背中を叩いた。
辛い、しんどい、水が欲しい。出発点から順に第一から第五堆土(たいど) が盛られており、第一堆土までは第一匍匐(ほふく)による前進を行う。そして、堆土を追う毎に匍匐姿勢も変化する。第五堆土までたどり着くと照門を起こして、セレクターを「ア(安全装置の意)」から「タ(単発の意)」に切り替える。そして、「一班、目標前方サンマルの稜線の散兵。突撃イチ、射撃はじめ!」の号令と共に「バンッ!」と大きな声を発する。続いて、「一班、打ち方やめ。突撃二、稜線へ走り散兵を各個に刺突撃破!」と、突撃の号令で皆と一斉に全力で走り、的(てき、まと)に銃剣を突き立て、前蹴りを入れる(実際にはその振りを行う)。
本来は突撃までが一連の流れだったため、駆け足で引き返して原点(前進行動開始地点)に整列するが区隊長の思いつきで戦闘訓練場は地獄と化していた。突撃を終えた地点から原点まで第五匍匐による前進を行うことになり、八十メートル以上を腕の力だけで戻る拷問を受ける。区隊長の声掛けに返事をすれば草や土が口の中に入るのも辛いが、何よりも匍匐前進を繰り返し行えどまるで進んでいる気がしないのだ。
戦闘訓練開始から二時間、一度全員に集合がかけられた。「休憩したいものはいるか」との区隊長の声に程よく手を抜いて楽ができている者や、部活のノリでおちゃらけている者は「なし!」と答える。周りを見れば私を含めて半数は休憩をしたいと考えていた為、「なし!」の声に困惑する。もちろん、班長方や区隊付きや区隊長方もこれに気づき怒号に喉を震わせる。発する言葉は、「お前らは周りも見ず、自分らのことしか考えんのか! 周りを見てみろ、半数以上は真面目に取り組んで真剣に全身全霊で望んどるんど。抜けるところも抜かず、自衛官として必死に励んどるんぞ。恥を知れ!」といったもので、その怒気に全員が緊張に身体を固くした。結局、私を含め半数の同意の元に休憩はなしとなった。しかし、私たち半数は個別に小休止を各自の判断で行って良しとの指示を受けたため全力で行って帰ってきては一息ついてを繰り返した。
日中こそ暑さを感じ初めるも、朝晩はまだまだ冷え込んでいる。夕方になり時折吹く風に肌寒さを感じながら、早足更新で武器格納庫へ戻ったときには正に満身創痍だった。武器の格納を無事に終えた面々の目の前で、格納時(返却時)に不備のあった者がペナルティとしての腕立て伏せをしている。
全員の格納が終わると、武器格納庫の前で解散し各班事に別れてそれぞれの行動に移った。私の班は一度営内にもどり、ジャー戦(B2装、迷彩作業帽と迷彩服、下はジャージ)に着替え食堂に向かった。朝と昼はがっついて食事を摂ったが、夕食は少なめにしている。これは私だけでなく、この後に私と行動を共にする同期十六名全員だ。

ジャージとスポーツキャップ、履きなれたランニングシューズで準備運動を行い、次いでサーキットトレーニングを実施した。息を整え、二列縦隊になり1名が列外にて号令 を行い、毎日恒例の二十キロ走が始まった。この二十キロ走は、最初からこの距離では無かった。当初はとりあえず十キロほど走ろうかと志し同じくする同期二人と始めたもので、次第に参加させて欲しいと同士が増えていった結果、全員の練度も向上し、併せて走る距離も伸びていった。
二十キロまでは全員で徐々にペースを上げながら走り込む、それ以降は各自別れて好きなだけ走る。しかし、結局また合流して掛け声なしで走り抜ける。仕上げにもう一度サーキットトレーニングを行えば終わりだ。二十キロ走と、個別のランニングで日々の走行距離は二十五キロほどになる。
営内に戻り着替えを済ませ、隊員浴場で汗を流し一日の疲れを癒す。体力錬成に時間を使うため、私たちの時間は限られているが部隊の先輩や仲の良い同期と他愛のない話に浸れること時間は平日の唯一の娯楽だ。部隊の先輩には同じ連隊に、同じ小隊に来てくれとお誘いを受け、中隊事務のゴリラ一尉(私がそう呼んで慕っていた幹部、ボディビル部)は熱烈な勧誘を受ける。ときに小突き会いながら無邪気に笑い合えるこの空間が何よりも好きだった。
営内に戻ると、清掃やプレス(アイロンを強くかけてシワを取り、折り目をつけメリハリを付けること)
を行い半長靴の手入れを済ませる。夜の点呼もあるからとにかく忙しない 。夜の点呼はいろいろ事件が起こるもので、一日の中で特に緊張する。ある時はたった一人のミスで凡そ百二十名が雨降るなか筆たて伏せを延々と課された。もちろん一人のミスであれど、その一人の責任では無い。周囲が情報共有やフォローを行わなかった、つめりはそれぞれの監督不行届によって招いた結果だ。そういうことも起こり得るのが夜の点呼だから、何も起こりませんようにといつも願っていた。
点呼の後は消灯まで、思い思いにのんびりと自由な時間を満喫していた。ベッドでゴロゴロしながら漫画を読む者や、テレビを見て笑い転げる者。私は年長者の同期と一日の振り返りをするのが日課で、この日も反省すべきところ、良かったところを出し合って励ましあった。

ベッドに入り、消灯ラッパを聴くと一日の終わりを実感して眠気が襲ってきた。また明日も頑張ろう、明日の課業はほぼ全てが座学だから居眠りをしないようにしないといけない。気を引き締めよう。

一般曹候補生で自衛官の道を歩き始めた私は、前期教育隊でこのように過ごした。学校の思い出はいいものがあまりない、正確には自分に自信が無いからか思い返してみても語れる話がない。
自衛官として過ごした時間は長くはなかった、病気によって夢を、道を絶たれ絶望の縁に立たされ投げやりになったこともあった。けれど、自衛隊生活の中でも前期教育隊は思い出が詰まっていて思入れも深い。二十キロ走を毎日頑張っていたが、たまに違うことにも全力だった。
課業終了して、食事を終えて同期たちと営庭に集合。中隊事務所に声をかけて借りてきたバットやクラブ、そしてソフトボール。たまにこうして課業終了後は別々に行動する同期たちも全力で遊んでいたが、部隊の先輩方が混ざってくれることも嬉しかった。学生生活では感じられなかったもの全てが、前期教育隊に詰まっていた。課業終了後、それは学校生活でいうところの放課後といえるだろうか。私にとっての唯一の暖かく幸せな時間の記憶だ。

10/12/2024, 5:35:01 AM

様々に鳴き連ねる蝉の声が聞けえなくなり、厳しい暑さも和らいで風吹けば秋を感じるようになった。焼き付ける日差しは優しさを帯びているが未だ付き纏う暑さは衰えず、影に体を隠したならば僅かばかりの心地よい季節を肌に感じる。朝晩はやや冷えを感じるようになり、一日一日とゆっくりだけれど確実に次の季節へ歩みを続ける。

不意に、心に空いたままの穴を埋める手立てもないままに惰性と野心に揺られ、ぶらりぶらりと生きる私に吹き付ける冷たい風が寂しさを運んでくる。大人にはまだ幼く子供にはもう幼さを見せない思春期の頃、父のように強く逞しく優しい姉が嫁いで実家を出た。いやいや、既に実家を出て彼氏のアバートで同棲をして一年ほどだから、姉の存在を身近に感じなくなって寂しさを覚えたのはこの時か。
姉の彼氏はとても穏やかで朗らかで優しく、姉と共に実家に訪れたときには暖かく接してくれた。兄が二人いる私には、兄という存在は嫌という程強く感じていたが彼は大人の振る舞いでもって安心感を与えてくれた。姉とのデートなど行きたいだろうに、休みの日には私たち兄弟を釣りに連れ出してくれたりカラオケへ誘ってくれた。いつしか本当の兄のように信頼し懐いていた。
姉の結婚式の日、朝早くスーツを着て準備をする私たち家族はどこか興奮気味で、まるで祭りの縁日にでも出かけるかのようだった。母子家庭で我慢し忍ことの多い姉は、どれだけのことを犠牲にしてきただろう。苦労と難儀の果てにやっと手にした幸せに私も強い喜びを感じて、だけれど緊張でふわふわしていた。

挙式、披露宴と慣れない環境に萎縮していた私達に少しおちゃらけながら声をかけに来た姉はとても綺麗だった。その表情は幸せそのもので、これからの生活への希望や期待を見て取れた。けれど、やはり少しの不安があったのだと思うのは、普段はおちゃらけることの無い姉の姿に無理に私たちの気持ちを解そうとしているようにも、自分自身を落ち着かせようとしているようにも見えた。
味めて顔を合わせた義兄の家族や親類もまた、2人を祝福し幸せそうだった。2人を眺めながら思い思いに話を弾ませ食事を楽しんでいる姿を見ながら私たち家族も特別なひとときを楽しんだ。


姉の結婚式から一週間ほど、義兄と共に姉は地元を離れ遠く離れたところへと引越して行った。一人でいるとき、涙が零れ口が震えた。もう今までのように会えない、甘えることもできないのだという現実に押しつぶされて心に大きな穴が空いた。父のいない我が家にとって姉の存在はとても大きく、とても強いものだった。
半年ほどの時が過ぎた頃、大きくなったお腹を優しく撫でながら姉が玄関に立っていた。出産、そしてせめて首が座るまでは実家で世話になるからと帰省してきたのだった。姉が戻ってきたことがとても嬉しかったが、姉は私たちの兄弟だけれど、それ以上に一人の母親になるんだと複雑な気持ちを抱いていた。独占できないことの寂しさやもどかしさ、それでいて幸せそうな姉の姿を見てはつられて笑顔になるほどの嬉しさ。けじめをつけられない自分な幼さに恥ずかしくなって踏ん切りをつけることを決めたが、やはりすこし甘えたい気持ちは無くならなかった。


母子家庭で兄弟も多くいつも寂しさを感じながら過ごしてきた。そこに友を亡くしたことや姉の結婚にと心の穴を塞げないまま大人になっていた。だから恋人との交際はいつだって結婚前提の真剣なものだった。交際から二週間で必ずご家族に挨拶をしては、真面目すぎず気楽に付き合ってみなさいなどとご両親に指摘されたこともあった。きっと、恋人が私の傍から居なくなるのが怖かったのかもしれない。それでいて、過去の失恋の経験から自分に自信が無かったことが必死さに拍車をかけていたのかもしれない。
結局、縁に恵まれないまま気がつけばこんな歳になっている。違う、縁には恵まれていた。別れてもふた月後も経てば新しい出会いに恵まれていたのだから。私はそれを大切にしなかった、恋人を大切にしなかった。言い訳や屁理屈で自己を正当化して逃げ回っていたのだと思う。いま後悔したって時を遡ることはできないのだから滑稽な様を見るだけだ。


僅かに開けた窓から吹き込む優しい風に、私のふわふわした心と同調するように揺れるカーテンが優しく頭を撫でている。

10/10/2024, 2:33:45 AM

「ココロオドル」


皆さんこんにちは、昨日「今晩、投稿します」声高らかに宣言した私ですが、失念して寝てしまいました。

そして、たったいま投稿致しました。

相も変わらず訳の分からない駄文で長文なために、、執筆中はラグが酷く難儀しました。その為、誤字脱字などあるかもしれません。

どうか一読して頂けますと幸いです。

10/9/2024, 5:09:00 AM

束の間の休息

十代の頃から建設業種において職人として汗を流し、時に挫け時に迷いながらも技能を磨き技術を向上させるべく精進してきた。十五歳の時には一人親方をしていた祖母の手伝いで型枠大工の仕事に打ち込み、手伝いが終わればそれがきっかけで別の会社へ飛び込んだ。山の中にある土場に乗り合わせて集まれば、夏なら陰へ逃げ込み、冬ならドラム缶で木くずを燃やして暖を取り談笑した。私の親方は当時で七十代、私のことを孫のように可愛がってくれ優しくし接してくれたが仕事ではとても厳しかった。
十九歳を目前にひとり宮城県の会社へ住み込みの職人として就職したが、所謂「反社」にいた人たちが営んでいる会社だった。仕事で下手を打てば帰社して、車座で座る従業員の目の前で苛烈な制裁を加えられた。他の従業員に殴られた時、痛みを訴えれば馬鹿にされ、罵られて人格を否定された。

逃げればどれだけ楽だったろうと考えたことも度々あるが、それができる状態ではなかった。常に監視をされていた、銭のひとつも持たなかった。逃げ出した先で路頭に迷うことになるのは容易に想像が着くほか、元反社の面子が揃っていることもあって情報網ら広い。かつて逃げ出した従業員は県外に居ても見つけ出されて連れ戻されている。連れ戻された従業員への制裁はない、というのも洗脳するために社長や幹部が優しく温かく寄り添うからだ。
辛く息苦しい日々からやっとの思いで逃げ出すも、ひと月もたたずして連れ戻される。だが、逃げ出した先で待っていたのは寝る家も暖かい風呂も布団も、美味しい食事もない現実。働くことも出来ず、銭も持たない着の身着のままでの生活など容易ではない。そんな時にさも心配したと言わんばかりの出迎えで、涙ながらに身を案じたのだと言われればぐっとくるものだ。そして、お前が必要なのだ、お前の仕事は素晴らしく他の者の見本となるものだとおだてられれば、そうなのかと信じてしまう。
会社について、社宅の居間で静かに冷静に、されど情を誘い、刷り込むように声をかければ洗脳された金の成る木ができあがる。そんな人間を見ていれば逃げようなどとは思えなかった。
私にも洗脳しようと企てが何度もあったが、私は自分の信じたことしか信じない性分だ。終に洗脳は出来ぬかと悟った社長や幹部は、私への接し方を変えた。つまりアプローチを大きく変えたのだ。否、従業員の中でとりわけ問題を抱えていた人間を追放した頃から優しく丸くなった。単にストレスが軽減されたことで心に余裕が出来たのか、震災後の復興事業で売上が爆増したことでゆとりが出来たのかもしれない。 何れにせよ私は洗脳されることはなく、仕事の先々で交友関係を広く作って抜け出すことに成功した。

その後は過去にも執筆したように、絵を描いてくれた人が元は反社の人間で現在進行形でシャブ中だった。またある人は元反社で詐欺師で現在も反社と繋がりのある人だったりと、どこまでも黒い影は私に付きまとった。だが、これは私が全てを他人に転嫁し、依存し、頼って来た結果である。悪の道を行く者やその道を歩いてきた者からすれば、私はさぞ美味しいそうに見えるモだったろう。
それらを断ち切るのは本当に大義なことだったが、それも自分自身で蒔いた種。最後は相当に危ない橋を渡ったが、繋がりを断ち切り地元へ帰ることができた。地元へ帰ることが出来たのはいいものの、私は人生の路頭に迷うこととなった。人の人生の自然なながれは、中学校を卒業して進学か就職。或いは高校や大学を卒業して就職、または専門的なことを学べる道へ進学。吟味して飛び込んだ会社でキャリアを積んだり、スキルを身につけたりする。転職だってすることもあるだろう、その時には少しでも収入向上や待遇の向上、或いはより自分にとって好都合な会社を模索する。そうして自分の信じた人生観と思い描く将来像へと歩んでいく。
しかし、私にはそれらの機会がなかった。被害者振るつもりは毛頭ない、将来について、人生について深く考えもせずふらりふらりと気の向くままに動いてきた私が作り上げた末路だ。私には何ができて、何ができないのか。何をしたくて何がしたくないのか。何が好きで、何が苦手で嫌いなのか、得手不得手さえ分からなかった。自分のことを省みて、客観的に多角的に自分自身という人間を観察することすらせず、のらりくらりと時間を無駄にしてきた。だから、自由になった瞬間から私の本当の人生が始まったのだ。

たくさんの仕事を経験した。まずは、人の役に立ちたい、誰からも頼られるヒーローのような人間になりたいと思って商業施設で施設警備員として働いた。入社して新任研修を終えて、私の地元の商業施設へ配置された。そしてひと月後には重要なポストでの勤務を任して貰えるようになり、店幹部の方や設備員のかたやセンター長にも仕事や姿勢を評価して貰えるように。センター長には休みの度に飲みに誘って貰えるようになっていた。
巡回中のお客様対応や、店舗やテナントの事案対応も周囲からの評価は高くやり甲斐を強く感じていた。もちろん、目立つ立場ではあるし事故た事案では直ぐに駆けつけるのが警備員である以上、恨まれることや難癖を付けられることもあった。不良なんてのは優しく話をすれば「○○さん」なんて呼んで懐いてくれることが多く困らなかったが、酔っ払いやネジの飛んだ人の対応には骨が折れた。
仕事の中で強いストレスを受けることはあまり無かったし、巡回時は基本的にはひとり。親しいお客様ややんちゃな若い子や、テナントのスタッフの方々との触れ合いもあり充実していた。ただ一つ、同僚に対して思うところが吐き出せばキリがないほどであった。事故や事案があれば、最寄りの隊員が駆けつけて対しなければならないが、無線を無視したり他の隊に押し付けたりと散々であった。もちろん、そのような対応が苦手な隊員に対しては教育指導やフォローアップも行っていた。どうしても難しいならほかの隊員で対応を代わるが、その代わりに巡回を引き受けたりその他の対応を行うよう指示をしている。それを行わずして不満を口にして、自分自身の仕事を全うせず責任を放棄する隊員に腹が立つ日々を送っていた。
得意なことを活かしてくれればそれでいい、書類作成が難しいと思うならば、苦手だと感じたならば
得意としている私か副隊長へ正確に引き継いでくれればそれでいい。だが、事故事案については時系列やお客様情報など記録するものが多く、事細かに記録したものを併せて引き継ぎを受けなければ作成できず、警備隊の信頼が揺らぐことになる。事実、それらの不備でなんども店幹部やセンター長から適切に指導や再教育を行うよう何度も指摘されている。
ところが、「もう年寄りだから」「若くないから」などと屁理屈を垂れては真面目に聞かないのだ。本社へ相談し、一週間ほど再研修に来てもらったがお手上げだった。そんなことが続くものだから、ほかの職を探しながら勤務を続けていた。

その後は別業種の職人になって楽しく過ごしていたらいいものの、仕事がなくなって解雇。また別の仕事に行けば、求人情報や面接や職場見学などの時に受けた説明と違ったりと散々であった。
そして現在は現場監督として様々な現場へ赴いているが、会社として無難であれど現場単位では滅茶苦茶だったりする。私は出向して応援に入っているのだが、例えば今の現場では過去のトラウマを呼び覚ますようなパワーハラスメントを受けている。会社へは相談したが、何も変わらないならこの会社とはお別れだと思い始めている。


そして、いま私の胸の中でふつふつと湧いている感情、思い描いている働き方がある。それは、この現場を最後としてもっと自分を大切にできる仕事に転職しようということだ。知っている人は多いと思うが、現場監督は残業が多いが、ここについては気にならない。問題はプライベートな時間が限られるということ、趣味に没頭する時間があまりないこと。これまで転職の度に年収を増やしてきたし、現在の職も毎年しっかりと昇給するため目に見えて年収が増えていく。しかし、自分の時間、何かに浸れる時間は大きく減った。

将来の目標や、、小さな夢はあるけれど肩肘張らずありのままの自分を活かせる働き方というのが健康で健全な生き方なのかもしれない。収入は激減するが、たった一度の人生、限られた時間はたくさん使うことが出来る。



釣り、レザークラフト、パラコードクラフト、料理
趣味の数だけ時間が必要だ。働きながらも趣味を満喫できるのならば、人生において束の間の休息と言えるのではないだろうか。

世間体、常識、色々なことがのしかかってくる人生を如何に心軽く歩いていくか。

その選択も、道のりも、歩き方も
自分の思うままに決めていいのだ。

人は生きてさえいれば、
どうとでもなる。

なるようにしか、
ならないのだ。

人生ってそんなものなんだ。

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