-ゆずぽんず-

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4/5/2023, 11:56:35 AM

若い頃、毎晩のように恋人と電話をしていた。今も世間的には若いと言われる歳ではあるが、さらに若い頃のことだ。


寝る時間なので、土曜日に続きを書こう。

待っててね!

4/2/2023, 1:19:09 PM

有形無形に限らず、自分にとって大切な、あるいは重要なものは誰にでも一つや二つあるのではないだろうか。それは趣味であったり、特技であったりするだろう。若しくは、好きなものであったり特に気にかけているものであったりするだろう。或いは、かけがえのないものであろう。

取捨選択を強いられる状況にあって、ひとは本当に大切なものを真に知る。簡単に例えるなら、定期的に行う断捨離などがわかりやすいだろうか。年末の大掃除の際に断捨離を行う人もあれば、半年に一度、或いは数ヶ月に一度と高頻度で行う人もあるだろつ。私も三ヶ月に一度、または時間がとれなければ半年に一度は断捨離を行う。本当に必要なものを見極める力を養うためという理由もあるが、実をいえばものが増えるのが嫌な性分である。ミニマリストとまではいかないまでも、身の回りのものが無駄に増えていくのが気持ち悪いと感じる。故に、食器であったり洋服であったりと多種多様なものを見切りをつけて選別の上で手放している。廃棄したり、フリマアプリなどのようなもので誰かに譲ることもある。
断捨離や片付けを定期的に、且つ、こまめに行うことで私の部屋はいつも片付いている。片付いているといえばき声は良いが、生活感が ないと評することも出来る。人によっては非常に居心地の悪い空間であることは言うまでもなく、恋人などにしてみれば面倒なものだろう。ペアのマグカップが欲しいといって私の部屋に持ち寄ってくれた日には、既にあるマグカップが食器棚から無くなる。理由は簡単で、新しいマグカップの存在だ。マグカップなどひとつあれば十分だ。いくつ持っていたからと言って、全てをその日その時の気分で使いまわせる自身は私には無い。ならば、せっかく頂いたものを大切に使いたい。しかし、恋人は一連の私の言行をよく思わない。腹も立つだろうことは容易に想像出来るが、私もこればかりは曲げられない。但し、ここで一言添えさせて頂けるのであればこの場を借りて声を大にして申し上げたい。恋人や友人がなにか持ち寄ってくれた時は有難く思うし、それを拒むことはしない。私が、今家にあるものを処分すればいいだけなのだから。今使っているものに思入れは無いのかと問われれば、絶対にないとはいえない。だが、新しいものに愛着を持つこともまた容易であるから、これまで使ってきたものは簡単に見切りを付けられるのだ。
但し、唯一と言っていいだろうか、欠点がある。それは、手持ちの洋服がない事だ。断捨離で手放してしまうからだ。私は建設業に従事している為、普段は作業着で過ごしている。仕事終わりにはその格好のまま買い物をするし、休みはほとんどない。洋服を着るタイミングがない。だからだろう、そもそも洋服を買わないし、買っても着ないから暫くの後に断捨離で見切りをつけてしまう。結果として、手持ちの洋服が無くなる。


暮らしの中で、必要不必要と瞬時に分別を付けられる能力はとても重要だと思うが、ないと困るものは手元を離れた時に初めて気がつくものだ。
さて、こんな私にとってかけがえのない大切なものは何だろうか。考えてみるが、この性分か人間性が原因なのかすぐには思いつかない。強いて言うならば、自分自身だろうか。というと「当たり前だ」という言葉が飛んできそうだが、少し意味が異なる。なぜこの場で、「自分」というものを口にしたのかといえば、それは私が私自身を誇りに思っているし大好きだからだ。睡眠障害で眠れない夜、不眠続きでメンタルを崩壊させる自分。フットワーク軽く、探究心と向上心が旺盛でストイックな自分。料理が好きで色んなものを作るが、作っただけで満足してしまう自分。恋人と交際が続かず、たくさんの方と交際するも未だに結婚に至らぬ、未熟で稚拙な自分。しかし、そのどれも私そのものなのだ。この世に一人しかいない。実に尊く、かけがえのない可愛らしい奴なのだ。この性格も、人間性も至らぬ点も含めて大切な存在だ。何よりも、こうして自分を評価してやれる自分、この考え方を愛している。


「灯台もと暗し」というが、自分自身というのが実は一番に見え難いものでは無いだろうか。その事を意識するだけで、自分自身に意識を向けてやる機会が増えるのでは無いだろうか。大切なものが、その輪郭がはっきり見えてくるようになるのではないだろうか。人それぞれに大切なものがあるが、その本質を見つめることはとても大切な事だと私は考えている。

3/29/2023, 11:25:42 AM

私は子供の頃か四十五歳前後でこの世を去る、そうした漠然としたものが胸の中にある。それは私が子供ながらにして、人生を悲観したからでも生きることを放棄したからでもない。何故か分からないが、そのようなものを感じていた。

私は十八歳の頃に親元を離れ、遠く仙台に移り住んだ。親元を離れたいとか、地元から逃げ出したいとか、そういった理由ではなく自立するためだ。しかし、私を待ち受けていたのは過酷な環境だった。もともと極道に関わっていた人間が営む会社で、仕事でミスをすれざ帰社後に皆の前で落とし前を付けさせられた。毎日のように私や同僚の誰かが殴られ蹴られ激しく責め立てられた。給料など貰えず、全てが現物支給で、本業の仕事がない時は派遣の仕事に行かされた。引越しや家具配送組み立て、家電配送設置に交通量調査も経験した。引越しや家具配送組み立ての企業には入社しないかとお声も頂くほど勤務していた。同世代の人間が仙台の街で楽しく遊んでいるのを見ては、羨ましさと恨めしさを募らせた。
そんな環境の中で、順応していくには自分を捨てることが必要だった。今までの自分を捨てて、無理やり新しい自分になる必要があった為、もがき続けた。結果として、驚くほど自分を変えることが出来た。だが、大切な何かも同時に失ってしまったように思うのだ。その後は退職できる環境では無いため、知人を頼って高飛びをした。ところが、こうした因果というのは付きまとうもので、この知人も極道絡みだったのだ。シャブ漬けで危険極まりない人間だった。普段は優しく、シャブが効いている間は仏のようだった。しかし、切れ目は人間性が豹変した。いつ何があるか分からない状況の中で、また知人を頼ることになった。その知人もまた極道絡みの人間だった。結局、他力本願で自分で何もしようとしないでことに臨めば因果は巡って来るものなのだと痛感した。
結局のところ、自分の時間を過ごすことが出来ないうちに若い時間は流れていってしまったのだ。いまは地元にいるが、当時の暮らしとはギャップが大きい為に未だに順応できているのか分からない時があると感じる。そして、何をしたいのかもハッキリ見えてこない。ただ、将来のことを考えたり昔から挑戦したかったことなどを思い浮かべてみて何となく求めていることがわかった気がした。私は転職を機に四月から新たな一歩を踏み出すが、これは模索してきた中で見つけた答えに近いものなのかもしれない。だからこそ、動いてみようと思ったのだ。不安が大きく、それでいて期待や希望も膨らんでいる。どうしようもなく途方に暮れてしまいそうな時を過ごしてきたが、それが無駄ではなかったと自分のために証明することも今度の転職の目的のひとつだ。人生というのは、タイミング(機会や時期)というのがとても大切だ。逃してしまえば二度と訪れないかもしれない。いやはや、後々になってもう一度訪れるやもしれない。これが分からないからこそ、何時でも自分を動かしてやれる状態を作っていなければならない。どんな厳しい状況にあろうとも、何とかしようと思えばどうとでもなるものだ。為せば成るのだ。その思いを強く持って、いつでも自分を活かせるように、高められるように準備しておかなければならない。否、その方が断然いい。これは実践してみれば強く実感するだろう。私はそうであったが、ひとによるところは大きい。しかし、何も意識をしないだむざむざと一日一日を惰性で過ごしていては無駄の極みであろう。ほんの少しの意識が、自分自身の財産に繋がる、財産とは人間性そのものだ。


私は、何となく感じている四十五歳前後での人生の幕引きをいつも考えている。残りわずかとも思えるし、まだ十分とも思える。しかし、いずれにしたってひとは最期を迎える。その時に何を成し遂げてきたかが、重要であると考えている。最期の時がどんな状況なのかは分からない、ベッドや布団の上で人生を回想するのかもしれない。もしかしたら事故や急病などで、そんな暇なくこの肉体に別れを告げるかもしれない。だが、きっとその後で人生というタイトルの長いようで短いドキュメンタリー映画を観ながら公開するかもしれないし、よく頑張ったと自分で自分を褒めるかもしれない。この世を去る時には、この世の全てと決別をすることになる。あの世に金は持っていけやしないし、趣味の釣りで愛用している釣竿も置いていかなければならない。だが、過ごしてきた人生の記憶は持っていくことが出来る。むしろ、それくらいしか持っていけないのだ。だから重要なのだ。尊いのだ。

つまるところ、この世を去る時になって自分の人生を悲観することなく「大したもんだ」と自画自賛することが出来れば人生のハッピーエンドと言えるだろう。

3/27/2023, 11:03:27 AM

もう少し、あと少しの辛抱なのだ。
大好きな文字書きが出来ず悶々としていたが、その憂いも心痛もあと幾日と待てば全て晴れるのだ。

先月の下旬から十五連勤を二度繰り返したが、それも今日で終わった。明日は所用の為に、恐らくは時間が取れないだろう。しかし、明後日より執筆の時間くらいは確保できるだろう。

3/26/2023, 11:02:16 AM


ひとは生まれながらにして、自分にしかないものを得ている。それは身体的なものであったり、自信を取り巻く環境的要素であったりと様々だ。しかし、多くのひとはその事実を自覚しないまま過ごしている。そして、私もまたそのひとりだった。例えば、生まれながらにして学習能力が驚く程に高いなどの特殊な能力が備わっているひと。例えば、とても愛くるしく誰からも愛される顔立ちのひと。例えば頭の回転が早く、想像力や観察力に長けているひと。もちろん、多くの人がこれといった特技や能力などなく平凡に育っていく。否、自分にしかないものを自覚しないままに自ら平々凡々と暮らしているのだ。
私は母子家庭に生まれた。正確に言えば、極道の父と昔はレディースをしていた血の気の多い母の元に生まれた。母は子供の頃はやんちゃをしていたが、社会に出てから変わったという。父のことはよく分からない。なぜ母が極道の父と出会い、結婚をしたのかは分からない。母が父について多くを語らないからだ。そんな父は私が三歳の時に不摂生が祟り、急逝した。以前の記事でも触れたが、私の父は長男である兄だけを特に可愛がっていた。私たち他の兄弟というのは、長男と同じように可愛がられた記憶がほぼないのだ。そんな中にあって、父が居なくなっても私たち幼い子供にとって悲しみもなく現実に変化を感じることは無かった。母は父がいてもいなくても苦労していた。私たちを保育所に預けると、仕事に出かけていた。夜の九時ころに迎えに来ては、先生や所長にお礼と挨拶をした家に帰り、夕飯を支度して私たちの面倒に追われる。今思えば、あのころの母には自分の時間などなく休む暇さえ無かったのだ。朝早くに起床して、私たち五人の子供に朝食を作る。起こして身支度をさせて、食事を与え、片付けをして私たちを保育所に届ける。小学生の長女や長男は歩いて登校。子供たちを見送ると、その足で母は仕事へ。と言っても、私が まだ幼稚園で言うところの年中のころは母は車を持っていなかったので自転車で活動していた。さぞ大変だったであろう。仕事を終えると、疲れきった身体に鞭打って私たちを迎えに来る。年長の頃、いつものように迎えに来た母が大きな車に乗って現れた時は兄弟みな大はしゃぎだった。そう、車種は確かに日産のバネットワゴンだ。あと時のことは今でも鮮明に覚えている。

私は生まれた時から視力が低く、分厚い眼鏡をかけていなければものをハッキリと見ることが出来なかった。昔の校長先生のような四角いメガネだ。レンズは牛乳瓶の底のように分厚いため、とても重く見栄えも悪かった。だが、これをかけていなければ周りの子達と同じように過ごすことができなかった。当時の目医者には、一生をかけてメガネが手放せないだろうと言われていたという。左目は調節性内斜視といって、ものを見る際にピントを合わせようとすると左目だけ極度の寄り目になる。右目が頼りとなる為に左目の視力は極端に低く、メガネはこうした症状の矯正の目的もあった。周囲にバカにされることは無かったが、度々嫌になっては大泣きをしていた。小学生の頃には、なぜこんな目を持って生まれてきたのかと塞ぎ込んだこともあった。身長は低く、体も弱い。幼く中性的な見た目から、女の子に間違われたり、幼稚園児と勘違いをされることもあった。地元の祭りでわんぱく相撲に出場した際は、女の子として紹介されて恥をかいたこともあった。
同級生や周囲の子は、新作のゲームが発売されればすぐに持ち寄って遊んでいた。遊ぶ時は、皆お菓子やジュースを親に持たされていた。私たち兄弟にはそんなものはなかった。角砂糖をポッケに入れて遊びに行ったり、野草をとっておやつ代わりに食べたりしていた。クリスマスには貰ったものを自慢している友達を羨んだりもした。みんなにあって、私に、私たち兄弟家族にはないものを意識し始めてからは他人と比較をすることが癖になっていた。そんなことをしては憂鬱になったり、全てにやるせなさを感じたりして涙を流すこともあった。しかし、友達や周囲のひとたちはあたたかく、そして優しかった。持ち寄ったお菓子やジュースを分けてくれて、角砂糖を美味しいと言って食べてくれた。ゲームやおもちゃも貸してくれたし、どんなときも仲間外れにしないで一緒にいてくれた。そんな温もりが私の心を救ってくれていた。そして、感謝というものを子供ながらに身につけることが出来ていた。

可愛らしい泣きぼくろも笑窪もないけれど、私には他人を思いやる素直な心と敬う心がある。父はいないし裕福ではなかったけど、母や姉、兄弟がいつもいた。喧嘩ばかりするけれど仲良く遊び回った兄弟がいた。いつも笑顔で話しかけてくれて、お菓子を分けてくれる近所のおばちゃん達がいた。どんなときも和に引き入れてくれる友達がいた。幼い見た目から、たくさんの「かわいい」を貰った。年齢制限のブレゼントををいつも手にしていた。父の存在を望んだところで叶うことは無いが、父がいない環境で家族の絆を固くすることが出来た。裕福でないためにプレゼントなどは余りもらえなかったが、たくさんの愛に恵まれた。


ないものをねだればキリがなく、憂鬱と気分も下がる。しかし、今あるものや既に得てきたものなどに目を向けてみれば考え方や物事の見え方は大きく変わる。本当に必要なこと、不必要なものが目に見えてわかるようになる。感謝や敬いの心に気付くことが出来るようになる。物事を強請るというのは、実に簡単で誰にでもできる。しかし、いま目の前にあるものの価値を見いだし生かすも殺すも自分次第だ。そして、それは強請る以上に難しいのだ。なぜならそこに気づくことが出来ないからだ。灯台下暗しというが、身近なところでもそうなのだ。ひとは今ある環境に目を向けることをしないし、なかなか簡単にできないのだ。隣の畑は青々と見えるが、そこばかりが気になってしまってしまう。だが、悶々としたり気が落ち込んでしまったときこそ自分自身のことに目を向けてみるといい。ただ俯瞰するのではなく、成り立ちや結果といったものや在り方というものを深堀してみることで気がつけなかった物事が、鮮明に見えて来るようになる。

ひとは今あるものの価値を見出せないでいる時ほど、他人に影響されやすく、必要でないものさえも欲しくなるのだ。

何かを 強請る時、なにかがよく見える時こそ思い出して欲しい、自分や身の回りにある価値を。私はそこに気づくことが出来たとき、自分を好きになった。愛することが出来た。そして受け入れて、ありのままの自分を磨くことが出来ている。

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