-ゆずぽんず-

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有形無形に限らず、自分にとって大切な、あるいは重要なものは誰にでも一つや二つあるのではないだろうか。それは趣味であったり、特技であったりするだろう。若しくは、好きなものであったり特に気にかけているものであったりするだろう。或いは、かけがえのないものであろう。

取捨選択を強いられる状況にあって、ひとは本当に大切なものを真に知る。簡単に例えるなら、定期的に行う断捨離などがわかりやすいだろうか。年末の大掃除の際に断捨離を行う人もあれば、半年に一度、或いは数ヶ月に一度と高頻度で行う人もあるだろつ。私も三ヶ月に一度、または時間がとれなければ半年に一度は断捨離を行う。本当に必要なものを見極める力を養うためという理由もあるが、実をいえばものが増えるのが嫌な性分である。ミニマリストとまではいかないまでも、身の回りのものが無駄に増えていくのが気持ち悪いと感じる。故に、食器であったり洋服であったりと多種多様なものを見切りをつけて選別の上で手放している。廃棄したり、フリマアプリなどのようなもので誰かに譲ることもある。
断捨離や片付けを定期的に、且つ、こまめに行うことで私の部屋はいつも片付いている。片付いているといえばき声は良いが、生活感が ないと評することも出来る。人によっては非常に居心地の悪い空間であることは言うまでもなく、恋人などにしてみれば面倒なものだろう。ペアのマグカップが欲しいといって私の部屋に持ち寄ってくれた日には、既にあるマグカップが食器棚から無くなる。理由は簡単で、新しいマグカップの存在だ。マグカップなどひとつあれば十分だ。いくつ持っていたからと言って、全てをその日その時の気分で使いまわせる自身は私には無い。ならば、せっかく頂いたものを大切に使いたい。しかし、恋人は一連の私の言行をよく思わない。腹も立つだろうことは容易に想像出来るが、私もこればかりは曲げられない。但し、ここで一言添えさせて頂けるのであればこの場を借りて声を大にして申し上げたい。恋人や友人がなにか持ち寄ってくれた時は有難く思うし、それを拒むことはしない。私が、今家にあるものを処分すればいいだけなのだから。今使っているものに思入れは無いのかと問われれば、絶対にないとはいえない。だが、新しいものに愛着を持つこともまた容易であるから、これまで使ってきたものは簡単に見切りを付けられるのだ。
但し、唯一と言っていいだろうか、欠点がある。それは、手持ちの洋服がない事だ。断捨離で手放してしまうからだ。私は建設業に従事している為、普段は作業着で過ごしている。仕事終わりにはその格好のまま買い物をするし、休みはほとんどない。洋服を着るタイミングがない。だからだろう、そもそも洋服を買わないし、買っても着ないから暫くの後に断捨離で見切りをつけてしまう。結果として、手持ちの洋服が無くなる。


暮らしの中で、必要不必要と瞬時に分別を付けられる能力はとても重要だと思うが、ないと困るものは手元を離れた時に初めて気がつくものだ。
さて、こんな私にとってかけがえのない大切なものは何だろうか。考えてみるが、この性分か人間性が原因なのかすぐには思いつかない。強いて言うならば、自分自身だろうか。というと「当たり前だ」という言葉が飛んできそうだが、少し意味が異なる。なぜこの場で、「自分」というものを口にしたのかといえば、それは私が私自身を誇りに思っているし大好きだからだ。睡眠障害で眠れない夜、不眠続きでメンタルを崩壊させる自分。フットワーク軽く、探究心と向上心が旺盛でストイックな自分。料理が好きで色んなものを作るが、作っただけで満足してしまう自分。恋人と交際が続かず、たくさんの方と交際するも未だに結婚に至らぬ、未熟で稚拙な自分。しかし、そのどれも私そのものなのだ。この世に一人しかいない。実に尊く、かけがえのない可愛らしい奴なのだ。この性格も、人間性も至らぬ点も含めて大切な存在だ。何よりも、こうして自分を評価してやれる自分、この考え方を愛している。


「灯台もと暗し」というが、自分自身というのが実は一番に見え難いものでは無いだろうか。その事を意識するだけで、自分自身に意識を向けてやる機会が増えるのでは無いだろうか。大切なものが、その輪郭がはっきり見えてくるようになるのではないだろうか。人それぞれに大切なものがあるが、その本質を見つめることはとても大切な事だと私は考えている。

4/2/2023, 1:19:09 PM