-ゆずぽんず-

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2/14/2023, 6:51:35 AM

今はもう会うことは出来ない友が一人いる。顔こそはっきりとは思い出せないが、時に怒って時に無邪気に笑う彼の姿は瞼の裏に焼き付いて離れない。否、魂に刻み込まれているようにいつまでも焦ることなく私の記憶の中にある。彼との出会いや思い出は先の記事で触れたのでこの場では触れずに話進めようと思う。
私の家族は母に兄弟が五人で構成されているが、父が居ないのは私が幼少の頃に他界したからだ。かといえ、寂しさや悲しさというものは無いのは可愛がってもらった記憶が全くないからだ。極道の事務所の構成員だった父は、母や私たちに関心がなかった。兄弟で唯一可愛がられたのは長男だけだろう。極道を辞めた後の父はろくに仕事をせず、借金をつくっては母が頭を下げていた。家のものを持ち出しては、勝手に質に入れてはその金でギャンブルや酒に使う。どこまでも母に負担をかけては、自分は怠惰な生活を送っていた。幼かった私の記憶などあるはずもなく、全ては母や兄弟から聞いた話であるが胸焼けのする内容であることは確かである。記憶がなくて良かったといえる。
ある夜、いつものように酒を煽っていた父は大量の血を吐いた。救急車を呼ぼうとする母を「呼ぶな。ワシが生きとったら迷惑をかける」といい制した。母の呼んだ救急車の中で搬送中に息を引き取ったらしいが、最後に「迷惑をかけたのう」と言い残したと母は語る。世話になった覚えも、親子としての記憶も父との間にはないが考えてしまう。父はどうして極道の道に進んだのどろうか。本当はどのような生き方をしたかったのか。心の内では何を思い、何を考えていたのだろうかと仕方の無いことを考えてしまう。心残りがあったのではないか。本当は家族と上手く向き合えないだけだったのでは無いかなど、私が考えたところで無意味であるが最期の時を自分に置き換えると胸が苦しくなる。
関係や記憶の薄い相手でさえ、この世を去った者のことを考えるとキリがなくなってしまう。人というのは、生きている人間には言うほど強く意識をしない。好きあったり嫌い会ったり、憎んだり寝たんだリはするが表面的であるように考えている。というのも、わたしも人間であるから人を嫌うことはあるし疎ましく思うことがある。亡くなった友や父に祖父や祖母のほか、自衛官の頃に亡くした同期のこと。生きている人間のことを考えている時と言うとは、感情が激しく起伏するのを感じるがもう会うことの出来ない人のことを考えると深く深く考え込んでしまう。いや、考えるというより思いを馳せるという表現が近いだろうか。直接聞く事は出来ず、表情を見ることも出来ない。そういったことがそうさせるのだう。
癇癪の気持ちや、後悔の念などは誰にでもあるものだろう。そして胸に秘めていることだろう。しかし、直接伝えるというのは好きな相手や嫌いな相手にかぎらず生きているうちにしか出来ない。仏前で手を合わせて心を込めて祈ったところ手間、相手のことは分かりようもない。生きている人間はすぐに反応をしてしてくれるだろうが。
「毎日、言葉にして伝えた方がいい」とよく耳にするが、これは正にその通りであろう。「明日でいいや」、「今度伝えよう」、「分かってくれているだろう」などのエゴは全てが無駄で愚かである。今生きている時間というのは有限であり、その時というのは誰にも分からない。タカをくくっていれば、その時に公開をするのは本人だ。そして恐らく故人もまた、心残りを抱えて心静かに眠ることが出来ないだろう。伝えたいことはどのような些細なことも、思い立ったその時がベストなタイミングであることを忘れてはならない。


私は母や兄弟、知人などには声を出して伝えるようにしている。いつ会えなくなるとも分からない大切な人たちだからだ。しかし天国に先だった友や同期、親戚などにはもう伝えられないこの想い。いつ尽きるの如何様に果てるか分からないが、この人生を終えた時にはあちらの世界でまた会い見えよう。そしてその時に精一杯の気持ちをぶつけるのだ。いつになるか分からないが、あちらの世界には時間などというものは無いという。ならば、私の生きる時間など考えたところで仕方の無いことだ。いったときに笑顔で久しぶりと手を握ろう。肩を抱こう。面と向かって煮詰めた気持ちを投げかけてみるとしよう。

さて、果てるその時まで
とりあえずは今日を生きてみようか。

2/13/2023, 1:33:53 AM

伝えられず胸の中で募る想いに何をすることも出来ないでいるのは、私だけではないだろう。これまでに出会ってきた沢山のひとのなかには、世話になって頭の上がらないひとや失礼をしてしまって頭を下げたいひともいる。プライベートやビジネスにかかわらず、様々な立場や仕事をしているひとと仲良くさせていただけた私はなんと光栄なことか。しかし、その中にもやはりと言うべきか想いを伝えたい相手というのは幾らかいるものだ。それぞれに伝えたいことは様々だが、今となっては伝える術はもうない。
知人と起業して3年目のことだろうか、震災復興事業も震災廃棄物処理が終わり各地域の手付かずのインフラが修繕され始めた。この頃の私はと言うと、会社が詐欺の被害に逢い1文無し同然にまで陥っていた為にひたすら途方に暮れていた。先般のお題でこの部分について触れているのでここでは割愛させて頂くとするが、この時分では本当に沢山の励ましがあって立ち直り再び歩みを始めていた。私たちの会社は震災復興の盛り上がりに乗るようにして企業したがものだが、このときというのは「福島県南相馬市生活圏除染事業」に従事させて頂いていた。3次請けで現場入りした私以下二名は、宅地の除染作業ではなく別の部署に配属された。新規入場してすぐに労災事故などで作業が 止まり 、私たちは一度の作業実績もなく「恐らく1週間ほど動かないから帰ってていいよ」と班長に告げられた。これから頑張ろうという時に出鼻をくじかれた思いで仙台に戻った。詐欺の被害があって私たちには生活する金がほとんどない中で、この作業中断というのは相当に苦しかった。日給月給の私たちは仕事に出なければ賃金が発生しないが、会社を起こした私にもそれは言えることだ。役員とはいえ現場に出なければ金にならない、米粒ほどの会社だ。班長から勉強しておくようにと渡された図面に三角スケールを当て、定規を当て、筆を動かす毎日。まだかまだかとハラハラして気持ちで過ごしていた。
「来週から動く」と班長から連絡を受け、従業員に招集をかけた。また南相馬市へ向かう道すがら、上手くやって行けるだろうか。生活は安定するだろうか。様々な不安が駆け巡り、胃がキリキリと痛むのを感じてはため息を吐いた。原町区牛来にある事業所経戻り、班長に連絡をしたのだが「まぁ、現場止まることなんてあまりねぇからわ、安心して真面目に仕事さ頑張ってればいいよわ」と開口一番に告げられた。彼は私や私の会社の事情など知りはしないが、入場直後に仕事が止まってしまった私たちの気持ちを察したのだろう。
それからは毎日慌ただしかった。私たちにはノルマがあったこと、私がまだ慣れていないこともあって時間が足りないと思う日々が続いた。私は南相馬市内のお宅を訪問して調査をする部署に就いていた。初日から班長と二人一組で業務にあたっていたが、一週間ほど経っただろうか。私は 班長とより効率よく仕事をこなすために分業化をしていた。班長が計測をして読み上げて、私が即座に図面に落とし込む。一人で計測出来ないところは二人で計測をした。全てのお宅を周り終えて、車の中で図面を仕上げて事務所へ戻る。事務所でもうは班長ともう一度図面を確認して細かい部分の修正を施して職長へ提出した。この時は一班あたり四件が一日のノルマだったが私たちの班は調査自体は昼前には終えていた。住宅地の団地ということもあり、建物以外は土地の大きさや形が近似していたことが幸いしていたのだろう。
周囲から見れば、分業化はいいものとしては映らなかったようだ。事務所内では私ばかりが図面を書くことを可哀想だなどといあ声が溢れていたが、私はこの体制を寧ろ好都合と捉えていた。分業化することで、私は他の班員の倍の数を処理することになりすぐにおいたく事ができ、技術習得も早かったからだ。ノルマが六件になってもそれは変わらなかったが、班長と私で決めたこと。不満も負担も無かった。私が書いて班長が確認をして、抜けを修正してまた私が確認するという作業もミスを予防していた。業務にあたって二ヶ月が過ぎようかという頃に 、班を増やすということで私たちの班は解体され、班長は別の新人の班員を受け持った。そして私はと言うと、「他の奴らの仕事を見てみて。それで教えてやって。君の方が仕事ができるんだから誰も文句は言わないよ」と職長から指示をを受けた。
私は酒好きな先輩とペアを組んだが、それはそれは苦労した。基本など皆無で、早く仕事を終えたいとばかりに適当な作業。私は彼と一月過ごし、基本を思い出してもらい初心に立ち返ってもらった。酒好きな先輩の教育指導が進むと、また班を解体され新たな班を作る。そしてまた違う先輩とペアを組む。それを何度か繰り返して、先輩たちは当初のペアで班を構成され私は新人と仕事をすることになった。この頃になると、とにかく毎日が充実していて楽しく幸せだった。私たちの会社の従業員も15名程にまで増えたことで盛り上がりを見せていた。。

生活圏除染事業から撤退したのは新規入場から二年と半年ほどのこと。今度は南相馬市内の県道の除染事業に従事する事になった為の撤退だったのだが、私には仲良くなった先輩やJV職員との別れが辛かったが、この話はまたの機会にでも話そう。

南相馬市の除染事業で最初にお世話になった班長は、地元の方で原発事故の被害者でもあった。元は大工など建築の仕事をしていたという、面倒見が良く真面目だがよく笑う愉快な人だった。班長は仕事の都合が出来たからと、ふと辞めていった。挨拶などまともに出来やしなかった。私が評価されるようになったのは班長の指導があったからだが、ついにはそのお礼も伝えられなかった。その後はどこで何をしているのか分からない。連絡先も変わっているようでどうしようもない。二年半の中で、この班長とすごした時間が何よりも充実していた。今でもあの頃に戻りたいと願ってしまう。それほどに人生で一番有意義だった。


誰にでも、想いを伝えたくても伝えられない相手というのはいるだろう。想いを伝えられず公開している人も少なくないだろう。今まさに、近しい人には恥ずかしくとも素直に想いを告げることを躊躇わないで欲しい。恥ずかしさなどその時の一瞬でしかない。後悔は一生続くのだから。

2/11/2023, 4:22:24 AM

人には優しく、親切にしなさい。いつも笑顔を絶やさず、誠実でいなさい。真面目に勤勉に、努力を怠ってはいけない。そんなことを子供の頃から一度や二度、周囲の大人から言われたことがある人は少なくはないのではなかろうか。かくいう私も、保育所の頃や小学生の頃に教師やご近所の方など沢山の人にそう言われてきた。いつもニコニコと笑顔で過ごしていれば周囲も笑顔に、誠実に振る舞えば誰からも信頼される素晴らしい人間になれる。誰にでも、どんな時も優しくあろうとすれば誰かに優しく愛される人間になると言われてそれを信じてきた。
大人になって様々な経験してきた中で、これらの教えというのはとても大切だと気づいたが常にそれを守るというのは難しい。子供の頃のように素直になれる環境がなかなかなく、常に猜疑心を持って人と接するようになってしまった私には純粋に優しくすることがとても難しく感じるのだ。人に騙され、断崖絶壁を蹴り落とされ転げ落ちた人生で私が学び得たことは如何に人を利用できるか。優しく丸く転がして、利用価値を引き出して得たいものだけ得たならばあとは何ら必要性がない。喰われる前に喰うということに他ならず、人を人として見てはならないということだけだった。「騙されたお前が悪い」、「付け入る隙を与えたお前が悪い」、「世間知らずで優しいお前が悪い」。散々そう言われてきた。私の周囲には元極道、元詐欺師、現役幹部の人間などが居た。その中でこれらの人の様々な意見や助言を聞いてきたが、どれも私の非を指摘するものばかりだった。もちろん、単に馬鹿にするものではなく私の不甲斐なさを指摘するものだったことは理解している。しかし、立場や経歴が違えば言葉もまるで違うものになる。現役の方に言わせれば、騙される私も悪いが 騙した方が当たり前に悪い。しかし、騙されたからと言って腐っていい理由にはならないし人に不義理をしてはならない。元詐欺師の方に言わせれば、人なんてものは信用に値しない。騙してなんぼなのだから、喰えるだけ喰っとけという。元極道の方に言わせれば、アンテナを立てて色んなものを拾って賢くならないといけない。そうでなければ、判断材料が極端に限られるか全くないと言うことになる。そうすると、人の手のひらで転がされることになるという。
実際に人を利用するだけ利用して、不要になったら縁を切るといった汚いことを散々してきた。人が金にしか見えないという時期もあった。もちろん、罪を犯すようなことはしていない。しかし、人としては最低最悪な言行であることは言うまでもなく地獄行きは必至だろう。ここまで読んだ人は恐らくだが、私のことを嫌いになるだろう。しかし、私も人間だ。道を外すこともあれば、褒められたことではない醜いこともする。事実そうしてきたのだ。だか、それだけじゃない。
助けを求められた時に私は一切の見返りを放棄したのだが、これは思い出したことがあったからだ。私は人の支えや助けがあって生きてこられた。人生をやり直すことが出来た。それを思い出して過去の過ちを恥じたのだ。妻子ある同僚が、どうしても生活費がままならないといって泣きついてきたことがあった。手には借用書と判子を握りしめていた。いつも私や周囲の人間に金の工面を助けてら貰っているからだろう、もはやそれが彼にとってはありふれた行動のひとつでしない。「お金を貸してください。もう生活できないんです。利息と合わせて次の給料で返済します」という彼の言葉を聞いたあと、私はこれまでのことを思い出して考えた。なんて置かなことをしてきたのだろうと。だから断ったのたま。「悪い、貸せないし貸さない」と言うと彼はもう他に頼るところがないと言い土下座までしてきたが私は突っぱねた。そしてバッグの中から、彼が必要だという金額にいくらか乗せて彼の手を取り握らせた。どういうことかと戸惑う彼に私は言った。貸すことは出来ない。貸してしまうと君がまた誰かから借りなければいけなくなり、やがてまたここに涙を流しに来ることになる。そんなことはもう見たくない。だから、このお金は君に託す。その代わり、責任を持って父親と夫の役目を果たしなさいと。
今までがどれくらい搾取できるだろうかと、醜いことばかりを考えてきた。しかし、今まさに人生のどん底にある人間をみて私は過去の自分を重ねた。そして、その時にすくい上げてくれた人たちのことを思い出したこ。あの時の人たちに音を返すことは出来ないが、あの人たちが救ってくれた私が誰かを救えばその音に酬いることになるだろうと心変わりしたのだ。

人は生きていれば、躓き傷つくことがあるだろう。人に裏切られ心が荒むことがあるだろう。どんなに賢い人も、偉い人も優しい人も面倒見の良い人も人間なのだから。

そして、私もまた人間だ。色んな経験から人生を見つめ直して、後悔と反省で持って成長することができた。そして、この先もきっと成長し続けていくのだ。

どんな人間にも、気持ちや意識しだいでいくらでもどこまでも道は拓かれている。
誰もがみんな、人生は無限大に拓かれている。夢や理想、その意思や想いの分だけ。
人生のどん底から這い上がったさきで、人生を失敗した私がそうだったように。

2/9/2023, 12:00:12 AM

過酷な環境の中にあって失っていくものは、気力や体力だけではない。喜怒哀楽といった人間が生きていく上で必要不可欠な要素も薄れていくのは、環境に順応しようとする生き物の至極当然の習性があるからだろう。防衛本能ともいうが、この防衛本能というのは言行そのものを指すものではなく、言行に至る思考という部分に働きかけるものだと捉えている。辛く悲しい時に笑顔でいる人の存在を見聞きすることがあるが、あれも本能に自己防衛のひとつであろう。人間とは笑顔でいようとすることで、気分が自然と上向くという性質を上手く利用している。笑顔が気持ちを上向かせ、気持ちを無理やり上書きすることで現実を回避しているのだ。
では、違った様子を考えてみたい。状況は様々であるが、悲しみや苦しみに打たれる人がいる。その人はとにかく周囲に対して荒々しい振る舞いをするが、その人を知る人によれば普段は温厚で笑顔が絶えない優しい人だったという。では、なぜこうも荒々しく振舞っているのか。何がそうさせるのか。この場合もおそらくは本能による働き掛けが作用していると考えられるが、この人の場合は心を閉ざして声や音、他人の言葉や気持ちといった余計と感じる情報を締め出しているのだろう。そして、他人を寄せつけず、他人の気持ちを自ら遠ざけることでパーソナルスペースを拡大しているのだ。胸が焼かれるほどに苦しい時に暴れ回りたくなる人もいると思うが、この人の場合は自身の周囲を静寂で保つことでの頃の安寧を得ているのだろう。ともすれば時期に落ち着きを取り戻すのだが、そこにかかる時間はこれまたそれぞれであろう。
繰り返してしまうが、本能とは行動そのものではない。ひとつの信号、或いは体を動かそうとする命令でしかなく言行 (言葉使い、行動など) とは作用の結果でしかない。急迫不正の状況を、例えば買い物客で賑わうコンビニで考察してみる。何も変わらない日常の中で、突然大きな地震が発生した。そして揺れる中叫ぶ人がいて、買い物かごを頭上に持って頭を守る人がいる。その地震によって火災が発生すると、客や店員も火を止めようとしたり逃げようとして慌てるだろう。叫ぶ人の姿もあれば、思考することをやめたのか呆然とする人の姿も見られる。消化器を探す人、蛇口から水を汲もうとする人もいる。店舗入口の自動ドアは停電しているので開かない。地震の影響で歪んでいるのか、押せども引けども開かない。すると、ガラスに向かってその辺に散らばるものを手当たり次第に叩きつける人が現れた。重量物を探して、ガラスに投げつける人も見える。このような人それぞれの動きというのは、まさにそれぞれの本能が大きく影響している。人間は賢い生き物であるが、こうした状況では単に動物のひとつの種としての非常に分かりやすい姿を見せる。
人は他人の笑顔を見て幸せな気持ちになることがあるが、これも本能からなるもののひとつだろう。人は周囲の状況を無意識に観察しているが、それを認知している人や意識している人は多くはないだろう。街行く人混み全体や、一人一人の表情や歩き方などを注意深く観察している人はどれほどいるだろうか。では、友人や知人。あるいは取引先の担当者や上司ではどうだろう、恐らくはかなり多くの人がこれらの状況では違う反応を見せるだろう。友人や知人であれば、沈んだ暗い表情をしていれば何があったのかと心配して声をかけるだろう。逆に眩しい笑顔を見せられれば、どんな嬉しいことがあったのかと嬉しくなるだろう。取引先の担当者や上司であれば、表情や言葉一つ一つを気にかけるだろうし注意するだろう。人は、他人の表情や立ち振る舞いから今どのような状況なのかという判断を無意識にしている。気の優しい方などは意識して観察して、その場その時に見合った振る舞いで場の調和に徹するだろう。友人知人や上司に限らず、人は常に誰かの表情を伺っている。そして、相手もこちらの表情を見ている。優しい笑顔で話しかけてくれる人に、何か嬉しいことがあったのかと訊けば「あなたが何だか幸せそうな笑顔を見せているからだよ」と返答されることもあるだろう。人は人の笑顔を見れば嬉しくなり、涙を見れば悲しい気持ちになる。例外は当然にあるだろうが、ここでは触れないでおきたい。表情はとても重要な環境要素の一つであることがわかる。


余程偏屈でなければ人の笑顔に嬉しくなることがあるが、ハンバーガーショップで無料で頂けるそれは誰でも気持ちのいいものだろう。店内に漂うポテトなどの匂いと、様々な商品が美味しそうに並ぶパネル。スタッフの溌剌とした接客対応と、行くたびに聞こえてくる電子音。商品が出来上がるまで心が満たされていくと同時に逸る気持ちが抑えられなくなる。食欲の激流が理性を流し去ろうとしている時、「お待たせ致しました」と食欲を掻き立てる香りと温もりを纏った紙袋を手渡される。そして接客スタッフの顔を見やると、そこには手にした紙袋にも勝る素晴らしいスマイルがある。「スマイルは0円です」というが、このスマイルはハンバーガーを美味しく食べるためのいちばん重要なトッピングだ。

2/8/2023, 1:22:16 AM

幼い頃から会話をするのが大好きだった私は、人を見つけては誰彼構わず話しかけていた。今でこそ近所付き合いの薄い時代になったが、この頃というのは他所の家のこどもでさえ家に招いて遊ばせてくれるような時代だった。そういった環境が、お物怖じも人見知りもない私にしてくれたのだろう。小学生低学年の時分では、学校の帰り道などに声をかけられ家に招いてもらっていた。友達と遊んでいる時でも、普段から良くしてくれる家の方は人数が多くてももてなしてくれていた。
私の地元は今でこそある程度の開発が進み、自然が減ったように思う。しかし、子どもの時分を思い出せば緑に溢れていた。みんなで一日中遊べるほど、川も綺麗に澄んでいた。現代の子供は外遊びが少なくなったと方方で耳にする。しかし車で街を走っていると、私が子供の頃に遊んでいた場所には今でもたくさんの子供が集まる。もちろん、「おしくらまんじゅう」や「竹馬」、「缶けり」や「めんこ」などの遊びをしている子供はいるはずもない。せいぜいボール遊びくらいだ。中には携帯ゲーム機で遊んでいる時や子供たちもいるが、驚いたことに会話を楽しんでいるだけの子供たちが多かった。
今ではハッキリと何時の事だったか覚えてはいない。生まれた頃から住んでいた市営住宅が芸予地震で危険な状態になってから、優先権が与えられ新築の市営住宅に引越した後の事だから恐らくは5年生の頃だろう。その日、いつも遊んでいた友達といつも遊ぶ川で釣りをしていた。日の入りも差し迫る頃、探検をすることになったので薮や林の中へ突き進んでいた。

気がつけば私は一人で古い祠の前に立っていた。何処にいるのか、どうやってきたのか。なぜ友達が居ないのかも覚えていない。分からなかった。八の字に並ぶ古びたそれは、暫く誰も手入れをしていないのだろう。左手に青い屋根の祠、右手に赤い屋根の祠が苔や草に覆われて寂しそうに佇んでいた。大きさは大人であれば膝丈程もないような小さなものだったが、その存在感はとても大きかった。何故だろう、突然寂しく悲しい気持ちが胸に溢れていた。素直な子供ながらに、こんな日も射さぬ木々の足元で苔むしているのを寂しく思ったのかもしれない。私は祠の苔を取り除き、蜘蛛の巣を払った。その辺の草や木の枝を使って祠を掃除して、最後に手を合わせた。そして目を瞑り、「見守ってください」と願った。恐らくは、土地の神様を祀ったものだろうということを何となく感じていたからだろう。その後のことも覚えていない。友達と遊んだ記憶はあるが、その祠に関する前後の記憶だけが私から抜け落ちている。

宮城で三度目の恋をしていた頃、恋人が私が借りている部屋が怖いと言った。仕事で僅かな時間、恋人を部屋に残し外出した時のこと。帰宅すると恋人がいない。ドアを開け奥の部屋に入ると、恋人が部屋の隅で体育座りをして小さくなっているのが見えた。どうかしたのかと訊けば、私が出掛けたあとにシャワーの音と私の歌い声が聞こえてきたという。私はシャワーを浴びる時いつも歌うが、もちろんこの時は出掛けていているはずがない。恋人は恐ろしくなって、一時間近く、部屋の隅で怯えていたという。その話を聞いて、恋人を励まし落ち着かせた後にこの部屋やアパートについて話をした。
それは私や同僚が仕事の都合でこのアパートに引っ越してきた日のこと。下階住んでいる同僚から部屋に来て欲しいと連絡を受けた。玄関を開けて中に入ると彼の部屋は真夏の暑い昼間にも関わらず冷蔵倉庫のように冷えていた。そして奥の部屋の戸を開けると、彼が私に一言声をかけてきた。「この部屋、ヤバくないですか?」そういいながら私の頭上を指さして、さらに続けた。「それ。それなんなんですか」と声を震わしている。彼の横まで歩み寄って、私も同じように座り込む。そして、彼の指さす先を見た途端に異常に気づいた。先程まで私が立っていた入り口、扉の上辺りに白い霧のようなモヤのような塊が浮かんでいた。「あれ何?」と私が声をかけると、「分からないんです。ただ言えることは、あのモヤは移動しているんです。もう1時間もこの部屋を漂っています」という。二人で気味悪がりながら観察をしていると、確かにソレは部屋の中を行ったり来たりしていた。部屋のエアコンは動いていない。それどころかコンセントプラグが抜かれていた。そして、部屋一面に広がる訳でなく空に浮かぶ雲がそこにあるように浮遊している。暫く見ているとソレは消えてなくなった。そして、その途端に夏の暑さが部屋を包んだ。
夜のこと。同僚からまた呼ばれて部屋を訪ねてみると、やはりというか同僚は部屋の隅で丸くなっていた。勝手に上がり込んで、彼を呼ぶと「ここに来てあそこを見てください」と指を指す。指さした場所は彼の荷物で溢れかえるロフトだった。彼曰く、私が帰ったあとに部屋の中に干していた洗濯物をハンガーから外していたら目の前に顔があった。そして、それに驚いた瞬間にはその顔は無くなっていた。そして、私を呼ぶ直前のこと。ロフトから視線を感じて目を向けてみると、そこに赤い服の女性がいたという。私もこの部屋に入って来た瞬間に視線を感じていたこと、彼が指さした瞬間にそこに女性がいる光景が脳裏に浮かんだこともあってこの部屋が普通ではないことを感じていた。そして彼によれば、彼の父はそういった力が少しあるらしく感じたり見たりすることがあるという。その父が引越しを手伝ってくれた際に、「俺は絶対に、一歩も入らんぞ。ここはおかしい」と口にしたのだとか。
恋人に引越し当初からの話をしたところ、昔から世話になっている霊能者に懇談してみると言った。暫く経って恋人から「来週の土曜日に見て貰いに行くから、うちに泊まりに来て。お母さんにも伝えたから」と電話を受けた。翌週の金曜日の仕事終わりに、恋人と一緒に2時間の距離にある隣県の恋人の実家へ向かった。途中、恋人の母や姉にお土産を買いつつドライブデートを楽しんでいた。そんな時に恋人が今回の件について話を始めた。まず、私のことは一切話していないこと。アパートでの現象だけを話したことなどの説明を受けた。私は霊能者という存在を信用してはいないが、私自身が感じたり見たり聞こえたりすることもあってどんな結果になるのだろうという期待はあった。恋人宅に着いて、挨拶をそこそこに私が作った夕食を囲んで団欒を過ごした。
玄関のチャイムを鳴らすと霊能者の「K先生」が暖かく迎え入れてくれたが、「あの人かぁ」と私に一言呟いた。霊視をする為の部屋に通され、名前や生年月日を伝えたところでK先生が話し始めた。私たちが来るまでのこと、玄関での言葉の意味などを優しく安心させるように説明を続ける。先生が話では、私たちが先生宅に向かっていることは手に取るように分かっていた。空に龍神様さまが飛んでいて私たちのことを伝えてくれていたという。そして、玄関を開けた瞬間に若い女性の霊が隠れたという。まず若い女性の霊は悪さをするものでは無いので放置していいということ、龍神様については私の守り神だという。

本題に触れると、この龍神様というのは白龍で慈悲と慈愛に満ちている。そして、誰にでも波長を合わすことができるためこの加護下にある人は人との付き合いに困ることはあまりないという。というのも、人に合わせることができるため世渡りが上手いのだという。では、なぜ龍神様が私のそばに居るのかは分からないという。私の家系では龍神様を祀っておらず、親戚にもそのような信仰はない。過去の話をしたところ、例の祠がその可能性に近いのでは無いかとK先生は言う。そして、興味を持って見守っていたら私のことを好きになって守っていこうと決めたのだと龍神様と話をしたとしてK先生は言った。部屋に入り切らないくらい大きな白が、とぐろを巻いて私の後ろで話を聞いていること。いつも見守っていること、導いてくれていることにほんの僅かでも感謝を忘れず特に意識もせずこれからも過ごしていけばいいとK先生は付け加えた。



さて、まだまだ話は続くのだが長文も過ぎると重く文字の入力が難しい。何よりも拙い長文に、読んでくださる皆さんを付き合わせてもいけない。この話は半端になるが、ここでしまいにしよう。

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