僕は今敏監督の「オハヨウ」が大好きだ。
春の陽気は夜の帳に消えたのね。
ばかなのに、ばかだと思われたくない康は、毎日を健康的に過ごそうと尽力した。
夜の九時ちょうどだ。
かけ布団でできた穴蔵へ、康は滑り込む。
枕に髪をひきずって、天井を見つめた。
時計の秒針は音もなく、滑って九時は消えていく。
康も音を立てず、今日はネガティブな日だと悟った……胃がざわめく。
「将来のことは考えない方が良い……でも、今がくるしいから、将来を想定して最悪の未来を避けようとしている。
今のくるしみに気を取られ、将来のさらなるくるしみから目を逸らすのは……
しかし、将来のくるしみに気を取られ、今のくるしみをそっちのけにしたってなにも……
今のくるしみに目を向けるために、将来のくるしみを考える……
将来のくるしみを取り除くために、今……」
康の部屋は、三畳の上になる和室だった。
康の人生は、平屋のままで、重みがなかった。
寝返りを打つ。
胃液がとっぷり胃壁をのぼるので、康は唇をかたく結んだ。
「か、考えるより……」
頭は特に冴えないのに、目ばかりが冴え渡って嫌になる。
康の瞬きはハチドリの翼よりも早く動いた。
「う、う、うう……」
布団をぎゅうっと握りしめ、背を内に内に丸めていく。腹を下にし、鼻を潰した。
「だ、だめだ、ぼくはこんなんじゃだめなんだ。
でも、でも、……」
乾燥した目は水を吸い取る。貪欲な土みたく。
康は自分が嫌いだった。
産まれるに早すぎた、などと無茶苦茶な他責思考がほとばしる。
頭なんてはじきとんじまえばいい。
「みんなこわい……」
康は、フードなしで外に出られなかった。
友人といると、いつのまにかプラスチックケースが自分を包んで孤立する。
二度連続でものを考えた時、決まって突然、思考に壁ができた。
なぜかわからない。康にはわからなかった。
「こ、こ、こわいんだ。ぼくは、将来だめになっているぼくが。
ぼくは、この世のくずでありたくない、ぼくをだれか支えてくれ、ぼくをだれか支えてくれ、ぼくをだれか支えてくれ……!」
康はどうする事もできない。いや、なにもしない。
夜は圧倒的で、社会は康に複雑すぎた。いや、康がくずすぎたのだ。
康はなぜ、このような生き方を選んだのだろうか。それがわからないから、こんな生き方なのだ。
春を春として楽しめる人が、いったいどれだけいるか、康には分からない。康はなにも知らない。なにも知らず、知ろうとせず、そこから動かず、動かない事に忙しいので、春に康はいない。
「Inside out」 Duster
Will I be able to speak
After a stiff drink?
Would it break my panic?
Would it sweat stop pouring out?
Slow and deliberate
With her words
She'll walk through
My heart
Those eyes light a fire
In my stomach
Fall apart
From the inside out
今年、アセクシャルについて初めて知った。
偶然見かけた作品がその足がかりになった。
その作品で描かれた無性愛者には
「性的欲求は希薄ながら存在する。
しかし性的魅力を特定の誰かにしか感じない。
また、性的魅力、性的欲求を感じる瞬間も、自分ではほとんどコントロールできない」
という性質がある。
身体と心が乖離してるみたいだ。
そんな自分を「まるで何に対してもいがみあう老夫婦のよう」と形容したり、このキャラクターは自分のセクシュアリティに強いコンプレックスを抱えている。
物語の中で、このコンプレックスを完全に解消する事はない。しかし、このキャラクターが作品に登場し、その悩みを話の主軸においたことで、作品は、アセクシャルの人々、自覚がなかったアセクシャルの人々の救いになった。
これが素晴らしいと思う。
僕にとっても学びになった。
アセクシャルは、必ずしも性的な触れ合いに嫌悪感を抱く訳ではなく、むしろ、性的な触れ合いを恋愛間でのみ発生するスキンシップのように捉えて、やりたいと感じる人もいる……等。
アセクシャルと一口に言っても、さまざまな特徴があるんだな、その人その人の話をよくよく聞いて、しっかり理解する事が大事……と思った。
「自分の勝手な価値観や、先入観から、決めつけない」は何に対してもそうだが、いつも難しい。心がけたい。
「きめたの。もう二度と振り返ンないって」
ポエマーかよと、笑ってやりたくなった。
でも、彼女の頬を伝うちょっとした水を見ると、なんというか、言葉に詰まる。
僕は決して座り心地のよくない、防波堤の上にあぐらをかいた。
夕陽は見ずに、海を見る。
夕陽はまぶしいし、夕陽を見るのはポエマーじみてて、恥ずかしくは無いが、なんか嫌だった。
海は海で……うるさい。
それを言うなら、僕の隣の彼女のひざもだ。
うるさいほど震えていた。
「座れば」
「……あんたの隣にはすわんないってきめたもん。
もう二度と」
彼女は言いながら、子鹿のように防波堤を歩く。
どこに行くのかと思ったが、僕から二歩離れた場所に座っただけだった。
「隣じゃね。それ」
「ユイはそう思わない」
……つくづく価値観が違う。
僕は背のうしろに両手をつき、胸を空に広げた。
夕暮れ空はまぶしくていやだ、目がかすむ。
「あんたさ。片目スマホやめなよ」
ユイの方を向くと、ユイが顔を背けた。
「……内斜視になンだから」
ユイの髪は成長する事に茶色くなっていく。
今は夕陽の光線にあてられて、外人のように金髪にさえ見えた。
風にそよぎ、キランキラン輝いている。金色が夕焼けに消えて、ただ光だけが目に入るから、それはまるで妖精の粉が、舞っているみたいだった。
「きいてんのかテメー!?」
髪をふわっと揺らしてこちらを向く。
ユイの頬にしゃらしゃら髪が絡みついた。
「うん」
「うそつけ!なんの話してたか言ってみんかいさ」
「内斜視」
「……聞いてんなら返事くらいしてよ」
ユイは丸出しの膝小僧をしずかに抱える。
雪見だいふくのようなひざにアゴをのせ、海に沈む夕陽の方を見つめた。
「キモイ」
そして突然そう言った。
「無表情で言うことじゃないだろ」
「キモイから笑えん」
「笑えとは言ってないだろ」
「……そだね」
ユイは、自分のうすい爪を眺めている。
僕は立ち上がった。
「……かえるの?」
何も言わずに防波堤を下りる。
ユイは白い首筋を伸ばして僕を振り向いていた。
何も言わずに踵を返し、自転車にまたがる。
もう一度ユイを振り向くと、彼女はもう夕陽に夢中になっていた。
「もう二度と人を信用しない」
「もう二度と恋なんてしない」
なんていう宣言をカフェに置いてけぼりにして、ちゃっかり彼氏をつくる女性が好きだ。
衝動的に死んでしまいそうで怖い。
ただのネガティブなのか?
カウンセリングに行きたいが金がない。
精神病院に行った方がいいのか?予約がとれない。
僕は発達障害なのか?
なぜ生きにくいのか?幸せになりたい。
「誰か僕を助けて欲しい」と思っている時点で、僕はダメなんだと思う。
僕は家族や、友人に、たくさん嫌な思いをさせてきたのに、なぜ僕が助けてもらえるんだろう。
今だって、誰かを不快にしてるだろう。
悪い気分を共有している。
毒電波だ。
頭が狂っている。
相応の罰が必要だと思う。誰か僕を救い出してほしい。僕から行動しなければならない。こんな所に気持ちを吐き出すのは逃げだ。逃げた先で誰かを不快にさせるなんて最悪だ。なんてイヤなヤツ。
「風」はしだのりひことシューベルツ
人は誰もただひとり
旅に出て
人は誰もふるさとを
振りかえる
ちょっぴり さみしくて
振りかえっても
そこには ただ風が
ふいているだけ
人は誰も人生に
つまずいて
人は誰も夢破れ
振り返る
プラタナスの枯葉舞う
冬の道で
プラタナスの散る音に
振り返る
帰っておいでよと
振りかえっても
そこには ただ風が
ふいているだけ
人は誰も恋をした
切なさに
人は誰も耐えきれず
振りかえる
〈間奏〉
なにかを求めて
振りかえっても
そこには ただ風が
ふいているだけ
振りかえらず
ただ一人
一歩ずつ
振りかえらず
泣かないで
歩くんだ
なにかを求めて
振り返っても
そこには ただ風が
ふいているだけ
ふいているだけ
ふいているだけ…