もっと知りたい
踏み込まれる度に同じだけ後ろへ下がった。正面から向き合おうとする相手に失礼だと知りながら、どうしてもその目を見つめ返せなかった。「教えて?」と問われる度に「これで全部」と嘘をついて、ありがとうねと話題を逸らした。
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邪魔をするのはいつだって過去の自分自身だ。領域を無遠慮に踏み荒らされたこと。まともに取り合ってもらえなかったこと。優しさを振り払ってしまったこと。押し付けられた義務感と上辺だけの親切心。強くいなければならなかったこと。気づけばいつも一人だったこと。そのうちそれを進んで選択するようにしていたこと。
廃品回収の来ないゴミ捨て場に溜まったそれは未だ重く存在を主張している。
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「いいよ、どうでも」
「よくないよ」
何度目かの押し問答にうるさいな、と叫びそうになるのを必死に抑えて「わかったよ」とだけ返した。分かったならいいと矛を収めた相手に小さな罪悪感を覚えて思わず首を抓る。今が夜で、君が正面にいなくてよかった。こんなところ、絶対に見せられない。手はそのままに硬い声を無理やり柔らかくしてありがとうねと退避路を作る。己の行動はどこまでもおぞましくて、同時に優しい言葉を真っ直ぐ受け止められる心の綺麗さはもう随分前に失くしてしまったことを自覚した。
知りたいと踏み込む1歩が大きな勇気を伴うことは知っている。
それなりの覚悟があって正面に立たれているのも分かっている。
離れていかないという言葉を信じたいとも思っている。
確証は無い。経験もない。成功体験もない。再演なんて耐えられない。それでも、君を手離したくない。
──それなら、この先も抱えるのは一人でいい。
汚い嘘は知らないまま幸せでいてほしい。
知りたいことは、教えてあげられそうにない。
たった一言の救難信号の出し方すら、もう私には分からないのだ。
平穏な日常
何事もなく、まっすぐで、安定していて、日当たりの良い日々。
気づけばそんなものを夢見ている。
1歩進んでは抱えた荷物を取り落として、拾い上げたら壁にぶつかって、前を見れば先の見えない曲がり角。紆余曲折と歩いた道のりは思い出せないくらい複雑で、そういえばしばらく太陽も見ていない。
「予定外ばかりで楽しいね」
トラブルばかりでも、落し物が多くても、坂やカーブが多くても、「平穏なんてつまらないよ」と笑い飛ばして傘を片手に進んでいこう。
愛と平和
果たして、それは一致するのだろうか?
過ぎ去った日々
きっと、どこかにチェックポイントがあった。引き返せる場所もきっとあった。曲がり角も、回り道も休憩所も沢山あった。それでも、無視してここまで進んできた。取りこぼした物は多いはずで、だけど何一つ思い出せなかった。
「過去」は振り返らない、と決めたのは随分と幼い時分だった。
「今」が結果論でしかないと言い聞かせるようになったのと同時期だ。
あの頃は多感で、捻くれていて──そのままつまらない人生を歩いている。
近頃は前を見るのも止めてしまった。今は足元の変わらぬ景色を眺めながら長い道を歩いている。
今はまだ過去を振り返る気にも、未来を夢見ようとも思わない。
いつか進み続ける道に意味を見いだせた時──或いは走馬灯で──イッキ気見してやろうと思う。
月夜
夜が紡ぐ言葉が好きだ。
透明で、粒が揃っていて綺麗な順序で並べられたそれをなぞるのが楽しみだった。それはまるで恋のようだった。
──もし、私が月だったら。
ありもしない「もしかしたら」を何度も考えた。或いは星でも良かった。夜と同じ時間を歩めれば透明な言葉に触れられたのに。
ある時、「置き手紙だよ」と添えられた言葉を見つけた。どこか怖がりなその文字はいつもより少し色を含んでいた。たまたま好きだったその色を見て、私宛ならいいなと思った。出来心で宛先を明記せずに返事を編んでみた。出来上がったそれはどうにもたどたどしく、目の荒い文字列は到底贈り物には相応しくない代物だった。
「お返事ありがとう」
もう1枚のメモを見つけた時、この文字を汚してやろうと思った。
幾度目かの置き手紙の横に、夜を汚す光の名を冠したそれを透明な軸を持つ筆記具とともに送り付けた。朝焼けと闇夜の合間に触れる僅かな時間を閉じ込めたような藍で、言葉を紡いで欲しかった。そうしてあわよくば、その色に私を思い出してほしかった。
──私は、あさひだ。
私が起きれば夜は眠りにつくし、夜が広がれば私は眠る。
──夜の書く文字が、誰かの闇を照らしたら素敵でしょう?
そんな言い訳とともに渡した月夜の青が、いつか曙に届けばいいなと思っている。