私は、人にメッセージを自ら送ったことがない。
来たメッセージに対して、だだ一言で返すだけだ。
だから、既読スルーはもちろん起こらないし、たとえスルーされても全然気にしない。
そもそも、そこまで深い人付き合いをしていないので、まず発生しないのだ。
この世の中で、自分の気持ちを受け止めてくれる人はもういない。。
過去の人間関係は全てリセットしたし、両親はもういないし、兄弟は精神を病んでいるし、今の仕事はひとりでやる仕事なので話す人自体いないからだ。
人間関係から解放されて自由だが、たまに寂しいときもある。
猫を飼っているが、やはり人でないとダメなときもある。
これから、誰かときちんと信頼関係を築いていくのは難易度が高い。
おそらく孤独死するタイプだろう。
こんな状況なので、既読スルーを悩むのは私にとって贅沢なことなのだ。
そもそも私から見て、全ての言葉、数字には色がついています。
例えば、1は白、2は黒、3は赤、4は黄色、5は青、6は水色、7は黄緑、8は濃い紫色、9は黄色、10は黒などなど。
おそらく、幼い頃の玩具や服などの色の記憶がずっと頭の中に残っているのでしょう。
季節にも色があります。
私にとって春はオレンジ色、夏は青色、秋は茶色、冬は白。
これは、おそらく誰でも同じような答えになるのでは。
秋の紅葉は茶色がメインですからね。
あと、秋のファッションも茶色がメイン。
秋はオシャレの季節なのですが、最近はひと月ほどで
秋は終わり、すぐに冬になってしまいます。
だから、秋服は買わなくなりました。
何でもできる季節の秋だけど、短くなりすぎて残念です。
せめて秋の夜に、美しい鈴虫の演奏に聴き入りながら、秋らしさを感じていたいですね。
世界が終わるとはどういうことだろう。
そもそも私たちにとって世界とは、個人の意識、つまり主観にほかならない。
だから、世界が終わるときとは、自分が死ぬときということだ。
私は今まで多くの死を見てきた。
おそらく普通の人よりかなり多くの死を見てきたに違いない。涙が枯れるほど看取ってきた。
そして、私のまわりの大切な存在がどんどん逝ってしまい、どんどん孤独になっていった。
だから、わかるのだ。死ぬのは怖くないと。
このまま生きていても、この世界に一人ぼっちに残されるだけなのだから。
映画の中では主人公が絶望的な人生を送っていても、あるとき転機が訪れる。誰か運命的な人との出会いで、主人公の人生はハッピーになってゆくのだ
しかし、現実は違う。
多くの場合、いつまでも深い闇の中でもがいていくのだ。
最近、以前ほど映画がつまらないと思うのは薄っぺらいと感じるようになってきたからだ。
所詮、人が創ったものなので、原作者又は監督の経験や興行上の実利でしか製作できないところが問題なのかもしれない。
個人によって人生が違うのだから、共感できないのは当然かもしれない。
ところで、私は靴を買い換えるのが面倒で仕方がない。
自分のサイズに合う靴が売ってないからだ。
その為、いつも靴選びに2〜3時間かかってしまう。
歩く時も次第に靴の中で足が遊んでしまって疲労が溜まる。そのたびに靴紐を結び直すことになる。
解決策はオーダーメイドにすることだけだが、料金が高すぎる。
この世界、特に日本は、まだまだ規格社会なので、個人が物や社会や共感の規格に合わせることが一般的であり、個人の事情に周りが合わせてくれることは稀である。
私は最近、他人が作ったものを受け入れられなくなってきているのだ。
何はともあれ、今日も靴紐を結び直して、仕方なく世の中に合わせてゆくのであった。
人類はやはり滅亡するのか。
いや、地球そのものが滅亡するかもしれない。
地球温暖化対策は行き詰まり、法治国家を前提とする国際法や国連は弱体化し、混沌とした時代になってきた。
忘れかけていた「人類の歴史は戦争の歴史である」という命題が、遂に私たちのすぐそばまで迫って来てもいる。
今年も山歩きをしなかった。その理由の一つに、野生の熊に出会うのが恐ろしかったことがある。
なんで、熊が住宅地まで降りてきたのか。
政府や専門家はきちんと分析すべきであるが、異常気象や山林地域の人口の過疎化などが影響してそうである。
これらも、人類が引き起こした負の遺産であるに違いない。
人類はもとより地球環境もどんどん悪い方へ進んでいるように思われる。
答えがわかるのは、50年後か100年後か。
いずれにせよ、私はこの世にもういない。
そして、今の無能な指導者たちも生きていないだろう。
だから、他人事なのだ。先送りなのだ。解決しないのだ。
それでも失敗から学ぶことを期待しよう。
そうすれば、答えは、まだわからない。