あなたがいたから
とある三兄弟のお話。
三男より。
もう10年も前の事だとは思えない程、あの頃の記憶は僕に焼き付いている。僕達の家は旧華族、今は財閥と言われる名家だった。恵まれていたのだろう、それは分家の人々に陰口を叩かれる兄達の姿を見た事があったからそう思っただけに過ぎないが。
あの頃の僕に自由は無かった。母は居なかった。僕を産んだ時に亡くなったのだと、あの家を出てから知った。ただ僕にあったものは、父の言いなりになることだった。笑えと言われれば笑い、同意を求められれば同意し、あの男のお人形になるしか、生きる道は僕の世界に無かった。
そう言えば、あの頃は兄と話した事が無かったことを思い出す。あの男は兄達を冷遇していた。僕と彼等とが関わる事を徹底的に拒絶し、あの頃の僕はあの人達と面と向かったことすらなかった。正直、あの頃はあの男のご機嫌伺いをしながら、することを禁止された勉強を、隠れてすることに精を入れていたから、会ったことのない兄に心を馳せることは無かった。
でも、そんなある日だった。あの男が居ない間を縫って勉強をしていた時、男の足音が聞こえてきたのを覚えている。父が帰ってきたのかと思い、急いで本を隠していたところだった。襖の開く音がして焦って後ろを振り返ると、そこにいたのは二人の男。兄達だったのだった。その後は、気付いたらトントン拍子家を出る事になって、何が何だか、ずっと目を回していたのを覚えている。
今の僕があるのは、あの日の出来事があったからに違いない。今は幸福だ。それもこれも、貴方達がいたから。
相合傘
とある三兄弟のお話。
三男より。
ぽつり、と頭に何か当たった感触がして、下を向いていた首を持ち上げる。今の今まで気付いていなかったが、随分と黒く染まった雲が眼前の空を埋め尽くしている。やっと今日のノルマを終え、後は事務所に戻り報告して仕事を終えるだけだったはずが、このままではその報告すらも危ういかもしれない。
さっきまでとは打って変わり少し小走りに道を急ぐ。しかし降っているかどうかも怪しかった先程とうって変わって目に見えて雨足が強くなっていくのが分かってしまう。どこかでやり過ごすべきだろうか。そう思い悩んでいたところで、ふと自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
後ろを振り返ると、通り過ぎたばかり建物から兄の一人、下の方の兄が出てくるのが見えた。『傘、ないだろ。』眼鏡に降ってきた水滴がつくのを不愉快そうに睨みながら、その右手に持っている物を掲げる。『ないけど...。』見えるそれは彼の手にあるその一つのみ。『...一緒にってこと?』それがなんだと言わんばかりに、目を眇め、首をすいっと降る。どうすべきか悩んでいると、早くしろとばかり睨みつけてくる兄にどうすべきか悩み、ひとつ嘆息を吐き兄の方へ歩を進める。
洒落っ気のない黒い傘を広げた兄の懐に入り、兄が歩き始めるのに合わせて自分も歩き始める。兄とは身長差が酷くあるのだが、それでも遅れたりしないのはいつもの彼なりの気遣いだ。自分は濡れていないのに、兄の傘を持っていない方の袖口は少し湿り始めている。これだから相合傘は嫌なのだ。自分が役に立つ事ができないから。彼が気を遣ってくれるから。そう思いながら、彼の優しさを今日も享受している。
落下
とある三兄弟のお話
長男より。
まず一つ、本来ならすべき心配や声掛けより先に、その様に対する感情が湧いてしまったのは、致し方のない事だと思うのだ。顔立ちは完成されていて、不機嫌そうに顰められた眉でさえも整っていて、そこに眼鏡で隠されているだけの厳しい目尻も。溢れた涙は、そこから落下してしまい、畳に染みて消えてしまうのが勿体ないとも思ってしまう。
己にとって弟達は唯一無二の存在である。何よりも寵愛し、守り、愛しむべき存在である。そんな弟の一人、目の前に立ち、涙を流しながらこちらを見つめてくる男に、己はどうすべきであろうか。何故泣いてるのかはわからない。己は自分の感情で泣いた事がないので止め方がわからない。
手を差し伸べてみる。握ってくれた。自分のものよりも高い位置にある頬へ向けて手を持ち上げてみる。触れさせてくれた。目を伏せ、頬に触れたままの己の手に自分の手を添えながら、弟は何も言わずに俯く。己は、動けないまま、ただただ畳に落下していく涙を目で追う事しか、今は何も出来なかった。
未来
とある三兄弟のお話。
次男より。
『最近思うんだ。』と、兄が言う。『変わっていくことが多過ぎて、これからついていけるか不安だ。』と。そんな、と。普段から最新の物事を扱い、数多くの仕事をこなすこの兄が言うのは、なんだか違うような気がして、『嘘つけ。』って、気付いたら口をついていた。いつも通り、感情の読めない微笑みをたえた兄の顔がこちらを向いて、『ほんと。』って、やけに優しく言うもので、何故だか無性に涙が出そうになって、鼻がツンとした。少し俯いて眉を顰めていると、兄の手が伸びて己の眼鏡を耳から外して、取っていってしまった。
今、こうやって生活していることは奇跡なんだと思う。あんな家に生まれてから、ずっと目の前だけを見てきた。真っ暗で、ただ一筋のレールが敷かれただけの、狭い視界。ただひたすらに言うことを聞いて、そうしていればいつか愛されるじゃないかと期待して。...そうして全て無駄だったことに気がついて。
未来なんてなかった。ただ今が一生続くのだと思っていた。でも今は違う。だだっ広くて、息の仕方も自分で考えなきゃならなくて、不愉快なことの方が多いここは、この兄と、あの弟がいれば何も恐ろしくなどないのだ。忙しない、時というものは、場合によっては視野を狭める。しかし、狭めるにも広いものがなければ意味はない。今、未来を感じることの出来る今に、なんだか涙が出そうだ。