一介の人間

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あなたがいたから

とある三兄弟のお話。

三男より。

 もう10年も前の事だとは思えない程、あの頃の記憶は僕に焼き付いている。僕達の家は旧華族、今は財閥と言われる名家だった。恵まれていたのだろう、それは分家の人々に陰口を叩かれる兄達の姿を見た事があったからそう思っただけに過ぎないが。
 あの頃の僕に自由は無かった。母は居なかった。僕を産んだ時に亡くなったのだと、あの家を出てから知った。ただ僕にあったものは、父の言いなりになることだった。笑えと言われれば笑い、同意を求められれば同意し、あの男のお人形になるしか、生きる道は僕の世界に無かった。
 そう言えば、あの頃は兄と話した事が無かったことを思い出す。あの男は兄達を冷遇していた。僕と彼等とが関わる事を徹底的に拒絶し、あの頃の僕はあの人達と面と向かったことすらなかった。正直、あの頃はあの男のご機嫌伺いをしながら、することを禁止された勉強を、隠れてすることに精を入れていたから、会ったことのない兄に心を馳せることは無かった。
 でも、そんなある日だった。あの男が居ない間を縫って勉強をしていた時、男の足音が聞こえてきたのを覚えている。父が帰ってきたのかと思い、急いで本を隠していたところだった。襖の開く音がして焦って後ろを振り返ると、そこにいたのは二人の男。兄達だったのだった。その後は、気付いたらトントン拍子家を出る事になって、何が何だか、ずっと目を回していたのを覚えている。
 今の僕があるのは、あの日の出来事があったからに違いない。今は幸福だ。それもこれも、貴方達がいたから。

6/20/2024, 11:14:30 AM