冬は一緒に……
冬は一緒に……?
なんだこのお題は。
冬は一緒に〜をする?
〜へ行く?
〜になる?
〜?
???
冬は一緒に……何?何をするの?それとも、何かになるの?
何?これはなんなの?
冬は一緒に、という文の意味が分からない。というよりは、文としておかしいんだね。
自分で続きを作れってことなんだろうけど……。
「一緒に」が邪魔すぎる。
冬は一緒に消える、としたとして、「何と?」とか疑問がでてくる。
何と?うーん、別れと共に消える、とかはあり得るかな?
『夏に去りし君を想フ』というボカロ曲があって、夏は暑いから一人の方が涼しくていいけど、冬は寒いから二人で寄り添いたい、っていう内容の歌詞なんだな。
まさに「冬は(別れと)一緒に消える」という文が成立する。
……。ここで終わるのはなんか不完全燃焼感。
季節の表れは明確に表せるかについて思い出した。
春が訪れるから桜が咲くのか?桜が咲くから春が訪れるのか?
これは後者だよね。
では、次は時間とは何かについてだ。
時が過ぎたから桜が咲いたのか?桜が咲いたから時が過ぎたのか?
今回に関して時間の定義をはっきりさせないと前者か後者かを選べない。
絶対存在、独立存在としての時間があるならば前者。
空間の変化、変容を時間とするならば後者となる。
うーん、後者になるのかな。絶対存在としての時間とか、少なくとも人間が認知することはできないから。
後者としか言いようがない。
さあ、ここからが本題だ。
ナーガールジュナの『中論』ではどちらも否定される。
いったいどういうことだろうか。
私は『中論』を正しく理解しているとは言えないため、これが正しい説明ではないということは留意して欲しい。
「桜が咲いたから時が過ぎた」
この文章は正しいだろうか。
考えてみよう、桜が咲くということはどういうことなのか。
時の流れない空間で桜が咲くということはまずあり得ない。
これは、時が流れていることが前提条件となってはいないか?(空間が時間無しに変化すると言うのが前提条件となっていたとしても、同じこと)
そう、これはさっき否定した「絶対存在、独立存在としての時間」を計らずして肯定することになっている。
私自身釈然としないところはあるが、ひとまず今の私にはこのような説明しかできない。
では、『中論』ではどのように説明されるのか?
このように説明されるだろう。
「空間と時間は相互作用の関係にあり、同時生成する」
だから
「桜が咲くということと時間が過ぎるということは同時に生成する」
ということになる。
「春が訪れるから桜が咲くのか?桜が咲くから春が訪れるのか?」
というのも、「桜が咲くということと春が訪れるということは同時に生成する」
というのが正しいということになる。
『中論』的な説明はできたが、私はまだ分かっていない。
とりとめもない話……
どうでもいいけど、「トリスメギストス」が思い浮かんだ。意味はよく知らないけれど。
話をまとまるように話すのは難しいよな。
誰かと議論しているときは、話すのに夢中になって議題がなんなのか忘れがちだし。
まあ、それでいいのか。議題はどちらが正しいかの押し付け合いではないから。
議題では双方の知を総動員している訳で、それだけで有意義な時間になるしな。
でも、自己目的化を果たせてしまったら、本来の議題が脱色されてしまうな。
以上。
風邪。
風邪を引くと安心する。
普段は心という見えないものと戦っているが、身体症状として現れてくるのは親切設計だよな。
風邪薬は市販であるのに、苦しみから逃れるには精神科に行かなければならないのはなぜなんでしょう。
娯楽が薬なのか。コミュニケーションが薬なのか。
苦しみが視覚化される世界だったら、どうなるんだろう。
……その程度の辛さで悲しむな、とか言われそうだな。逆に生きにくい世の中になりそう。
視覚化されても、経験がなかったら心ない言葉を言う人もいるだろうし。
苦しみだけが人生を絶望に追いやるとも、言えないはず。
そういうSF小説ありそうだな。
似たようなものでは、『アンドロイドは電気羊の夢見るか?』では、喜びを他の人に分ける装置が出てくるからな。目的はよく分からん。
感情というものが資源化されたのだろうか。
『メイドインアビス』のカートリッジみたいに、自分の苦しみを代わりの誰かに背負わせることができる時代も来るのかな。来ないでほしいな。というか、倫理的にアウトな気もするけど。
でも、実際生まれ持っての気質とかあるだろうし、平等ではない。
こんな話がある。
『偶然とは何か その積極的意味』では、「すべての人々に人間として必要な生活条件が保証されるべきであり、そのための費用をより幸運な人々が負担すべきである……(以下略)」
という考えが提唱されている。
「精神疾患を持っている人は、他人よりも苦労し、苦痛をより多く味わう可能性が高い。
故に、その苦しみは、幸福な人々に程よく分配されるべきだ。(動物でもいいのだろうか)」
こう主張を言い換えることができる。
どちらにせよ、あまり考えたくない話だ。
……実際可能であったとしても、実施されるとはとても思えない。
倫理的問題はまず考えられることかな。
「代わりに誰かが苦しむ」という時点で、苦しみの当事者も、その代わりとなる者も結果としては両方苦しむだろう。
技術として可能になっても、いや、可能にさせてはいけない技術なのかな。……。他人の意見が聞いてみたい。
雪は一年を通して景色を最も変化させるものであるといえる。
夏に見える積乱雲は勢いと迫力があり、それはそれで衝撃をもたらすものであるが、何よりも遠く、空の領域での出来事だ。
夏の雲は、宗教画のように、濃淡があり、それこそ何者かが描いたかのような、どこか非現実的なもののように私には見える。
それに対し雪はどうだろうか。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」『雪国』
小説『雪国』の序文である。
どうだろう、辺り一面に広がる雪の景色が容易に想像できるではないか。
雪。四季のある日本に住んでいる者であれば誰もが体験する非日常感、どこか他の世界に舞い込んだかのような空気感を想像できるだろう。
実際、小説『雪国』でも、主人公の島村はとても冷めた性格であり、発言、行動ともに無責任である。
まるで、「俺はこの世界の住人ではない」とでも言ったような……。
そう。まさに雪の与える印象にそっくりだ。
私が『雪国』を読んだ当初の感想としては、主人公の島村があまりに冷めており、当事者意識の欠片もない薄情な人間だと思っていたが、今思えば、それは雪の与える非日常感も少なからず影響していたのかもしれない。
ギリシア神話において、「冬」は豊穣神デメテルの悲しみの結果として生まれた季節だという逸話がある。
冬の間は娘のペルセポネが冥界の世界への行ってしまい、その間、デメテルは悲しみ続けているという。
豊穣神の悲嘆により、草木は枯れ、世界は純白に包まれる。
何が言いたいのだろう。
……ペダンティックに語りたかっただけだな。
今年も雪は降るのだろう。
初雪は下宿先で迎えることになるのだろう。
「雪が降っている」と家族に報告することなく過ごす冬。
……そういえば、人間のアイデンティティというものはごくごくささいな物に支えられているという。
「ただいま」と言えば「おかえり」と返してくれる人がいること。
毎日のご飯を作ってくれる人がいること。
夕飯を共に食べたり、一緒にこたつに入って温まったり……
挙げ始めたらきりがない。
着地点が見えない。ここで終わろう。
もう一つの物語。
この言葉の意味は、「自分のIF」だろうか。
あのとき、あの選択をしていたら……
この手を話をするとき「あのとき、あの選択をしていたから今の自分があり、その選択を後悔しているのだ」
といったことはよくある。
まあ、実際その通りなのだ。