風邪。
風邪を引くと安心する。
普段は心という見えないものと戦っているが、身体症状として現れてくるのは親切設計だよな。
風邪薬は市販であるのに、苦しみから逃れるには精神科に行かなければならないのはなぜなんでしょう。
娯楽が薬なのか。コミュニケーションが薬なのか。
苦しみが視覚化される世界だったら、どうなるんだろう。
……その程度の辛さで悲しむな、とか言われそうだな。逆に生きにくい世の中になりそう。
視覚化されても、経験がなかったら心ない言葉を言う人もいるだろうし。
苦しみだけが人生を絶望に追いやるとも、言えないはず。
そういうSF小説ありそうだな。
似たようなものでは、『アンドロイドは電気羊の夢見るか?』では、喜びを他の人に分ける装置が出てくるからな。目的はよく分からん。
感情というものが資源化されたのだろうか。
『メイドインアビス』のカートリッジみたいに、自分の苦しみを代わりの誰かに背負わせることができる時代も来るのかな。来ないでほしいな。というか、倫理的にアウトな気もするけど。
でも、実際生まれ持っての気質とかあるだろうし、平等ではない。
こんな話がある。
『偶然とは何か その積極的意味』では、「すべての人々に人間として必要な生活条件が保証されるべきであり、そのための費用をより幸運な人々が負担すべきである……(以下略)」
という考えが提唱されている。
「精神疾患を持っている人は、他人よりも苦労し、苦痛をより多く味わう可能性が高い。
故に、その苦しみは、幸福な人々に程よく分配されるべきだ。(動物でもいいのだろうか)」
こう主張を言い換えることができる。
どちらにせよ、あまり考えたくない話だ。
……実際可能であったとしても、実施されるとはとても思えない。
倫理的問題はまず考えられることかな。
「代わりに誰かが苦しむ」という時点で、苦しみの当事者も、その代わりとなる者も結果としては両方苦しむだろう。
技術として可能になっても、いや、可能にさせてはいけない技術なのかな。……。他人の意見が聞いてみたい。
12/16/2024, 11:57:17 AM