もう一つの物語。
この言葉の意味は、「自分のIF」だろうか。
あのとき、あの選択をしていたら……
この手を話をするとき「あのとき、あの選択をしていたから今の自分があり、その選択を後悔しているのだ」
といったことはよくある。
まあ、実際その通りなのだ。
鏡に向かい、「お前は誰だ」と毎日言い続けると狂気に取り憑かれるという噂を聞いたことがある。
なんとなく察しは付く。脳内の抱く自己イメージと現実の自己の乖離がアイデンティティの崩壊を生む、といった所か。
だが、鏡に向かいそのようなことを言わなくとも自分と言う存在は毎日変わり続けているはずである。
「誰だ」と言われたら誰だって名前を答える。
自分という存在はどこまでいっても曖昧なものだ。
他者に観測されない限り自分は存在しないという考えや、世界には私しか意識がなく、他人などは所詮私の意識が形作っているだけだという考えもある。
「誰だ」と問われたら肩書と名前を答えるか。
肩書は変わるが、名前は変わらない。
ややこしい言い方になるが、名前が私という存在を構成する表面の部分だとすると、肩書はその中身と言える。
「誰だ」と鏡に問いかけ続けて狂気に取り憑かれる者は、自己が変化しないものであると信じているのではなかろうか。
そうとしか思えない。自己が変わるものだと信じてるいれば、自分が何者でもないことに気づいているはずだから。
少し話は変わるが、この『書いて』というアプリ上での著者としての私は「私」と一致しているだろうか。
どこの誰が書いたかも分からないものをどこの誰かも知らない人が「いいね」を押している。もしかしたら、お気に入り登録をしている人もいるかもしれない。
誰に向けた文章なのかも分からない。目的すら定かではない。
極限まで薄めた『note』だろうか?それとも他者へ向けられた日記か。
私はお題を見て何か思い付いたら書くが、自己評価でいまいちだったら投稿しない。
日記だったらそのまま残っていたであろう文章は、この電子世界では文字通り無に帰してしまう。
そういう意味では日記ではない。日記ならば良いものを書こうという変なプライドなど湧いては来ないから。
こんな極限まで薄めたsnsでも他者評価のことを考えるとは、自意識過剰の極みだな。
私には書きたいという欲はあるが、題材がなければ書けない。
他者からの批評も浴びたいが、どこの誰かも分からない者の評価を素直に受け容れる程私の心は広くない。
不都合な生き物として生まれ落ちてしまったな。
本の中で「君は」とか「あなたは」などと書いてあると著者に呼び掛けられたようで私は毎回ビクっとしてしまう。
読者としての自分という存在が明確になることに対する反抗心がなぜだかある。
その理由は、蓋し筆者と読者の、これまで保たれていた対等性というものが読者を名指しした時点で消失するからか。
筆者が一方的に語ることしかできないのに「あなたは」とか「読者の方」などと呼称する。
ネット上のレスバで長い間返信が無いと「お前は逃げた」と勝ち誇る。それに似た不快感だろうか。
私が見下されたくないだけなのだと思うが、嫌悪は消えない。
実際筆者は読者に対して呼びかけをする必要はないように思えるので私が悪いと思ってはいないが。
思うがままに文を書いてしまったな。
このように自己の奔流を感じている時に書く愉しさを覚えるから、まあ良いのだが。
友情と聞くと、武者小路実篤の『友情』を思い出す。
確か、男の友人同士で同じ女を愛してしまい、苦悩する話であったと思う。
私は友人が多い方ではないので私自身に絡めた友情に関する話をすることはいささか難しい。
そこで、ここでは友情についての話を進めていきたい。
友情とは、友愛として解釈すると私的には分かりやすい。
愛の定義として私がしっくりきているのは「対象との関係の持続」である。
即ち、友情とはその友人との関係を大切にしていきたいという気持ちなのだ。
私が語れるのはこのくらい。
「欲しいものが無い」ということで、常に満ち足りているという自分を他人に向けて演出したり、「時間が欲しい」などと言って忙しいアピールをしていたりと、私が欲しかったものはそんなものではないことに今改めて考えてみるとそう気付いた。
他者からの賞賛。
言葉にしてみれば、こんなものだったのだろう。
そんな形のない欲しいものを求めている間に、自分が具体的に何を欲しているのか分からなくなってしまったような気もする。
そもそも、Z世代の特徴として形のある物を欲しがらないという特徴があるらしく、私も漏れなくそうであるという可能性もあるが。
まあ、お題に答えるのなら、今の私に欲しいものはない。
これまでの見せかけの願望ではなく、私はもう欲しいものが手に入っているからそう言っているだけだ。
それに、常に足りない、満ち足りないと思うよりは満ち足りていると思ったほうが……いや、これは正当化だろうか。
ふと思ったのだが、欲しいものというのはこれまであったものが無くなって初めて欲しいと思うのではないだろうか。
手に入れたことで明確な何かが得られる確信がなければ欲しいとは思わない。少なくとも私はそうだ、
空を見上げて思い浮かんだこと……
普段、空を眺めて思索に耽っている人などいないだろう。
お題として出されて初めて考える者が多そうだ。
私もそうなのだが、世に遍在する物に接すると私は大抵過去のことを思い出す。
大空の下で彼女と戯れ合ったこと……