終わりが来るということは何かが始まることの裏返しでもある。
唯一始まりのない終わりがあるとすれば……それは死だろうか。
死であるにしろ、視点を変えれば始まりでもある。
彼とはもう二度とは会えない、彼のいない人生を歩んでいくということ。
死がなぜ辛いのか、まともに考えなくても分かるだろう。
会えないから辛い。
だが、もっと論理的に説明すると、彼と関わっていた時特有の「私」の性格が無くなることに対する悲しみがその死の悲しみの本質であるはずだ。
別れとは、実は他者との別れではなく多様にいる自己との別れなのである。
誰かからの連絡があると、私はすぐに見てしまう。
必要とされている、と思うからだろうか。
返信が終わると同時に、すぐに虚無感に苛まれていたときもあった。
他人の当たり前、となると、それは常識のことを問われているのだろうか、と感じる。
私の当たり前。他人と同じではないところか。
つくづく思うのだが、私は「他の人も同じだろう」と思うことで安心感を得ることもあれば、「これは私だけがしていることだ」とマイノリティに属することで優越に浸ったりしている。
「当たり前」とまで言える領域に達していないこと言える。読書だとか。
だが、当たり前とは、言い換えれば習慣だ。
「習慣にしたい」とか、そういう意識を持ってしまったら余計やる気がなくなる。なんのために読書習慣をつけたいのか忘れてしまいそうになる。
何度も考えているのだが、これは自己目的化と環境の問題なんだと思う。
読書そのものを楽しむ意識を持つ。後は環境。
環境のせいにしないようには、やはり環境をデザインするしかない、と今の私は思っている。
スマホを触ってしまうなら、スマホを封印していればよい。単純だ。自制心なんて関係ない。
まあ、休みの日位しかうまくいかないのだが。
やりたいことには二種類あると感じる。
一つ目は刹那的なやりたいこと。これは半ば無意識的なものだ。惰性ともいう。なんとなくツイッターを見てしまったり、スマホを触っていたり、気づいたらユーチューブを開いていたりと。スマホ依存なんじゃないかと思うくらい、私はスマホがあるとダメ人間になる。
二つ目は、少しハードルが高いが、その分リターンも大きい意識的な行為だ。読書であったり、買い物であったり、まず意識しなくてはできないような行為。
お題から話がそれたが、私が言いたいことは「当たり前(習慣)を作れたとしても、本来の目的を忘れてしまっては意味がないし、いやいややりながら習慣を樹立させることはまず無理だから、自己目的化と環境を意識して当たり前を作っていこう」ということだ。
窓越しに見えるのは、いつもと変わらない光景。
薄暗いアパートの一室から見える外の景色。
大学生になり、新しい環境へと引っ越し、三ヶ月前は何もかも新鮮だったのに、もう風化している。
常にどこかへ行って、飛び回って生活したいとは思う。
変わらない環境にいると、自分も変わらないままだ。
常に新しい自分と出会っていきたい。
自分ではなく、環境を変えることでうまくやれると思うのは、そんな都合の良い話があるかという感じだ。
「ここ以外のどこかなら、きっとうまくやれるはずだ」
なんの具体性も伴っていない。