小学生のあの頃と比べたら私は大分変わってしまった。
そんな自分であっても、あの子は昔と変わらず俺と接してくれるのだろうか。
そうやって、自分で勝手に想像しては勝手に苦しむ。
人は変わるものだ。だが、その変化を受け容れられなかったらどうすればよいのだろう?
もとにはもどれない。
そんなことを考えていた、自分に劣等感を抱いていたその時に彼女と再会してしまったんだ。
……一年ぶりに会う彼女は記憶の中にいる彼女より一段と美しく見えた。
身長は低いままだったが、彼女はただそこにいるだけで凄まじい存在感を放っていた。
私はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。常日頃から彼女のことを思い、もし再会したときにどんなことを言おうかと考えていたはずなのに、いざ会った時には何も言えなかった。
どんな会話をしたかも覚えていない。
ただ、私は見惚れていた。
雨が降っているという状態は吊り橋効果に似たものを感じる。
雨が降っている時そのものが通常ではない、非日常感を少しは感じていると思える。
雨に対してどのような印象を抱いているかにもよるが、私は良い印象を抱いていない。
雨は昼を擬似的に夜にするものであり、地に落ちる雫は水溜りを作り、人間の行動を阻害する。
操作可能でない、自分の思い通りにならないものを嫌う性質がZ世代にはあるという。雨が嫌いなのは私もその一員である証か。
それはさておき、そんな嫌いな雨であっても好きな人と一緒であればどんな景色も明るく見えるものだ。
雨が嫌いな人は冬も嫌いなのではなかろうか?私がそうだから勝手に言っているだけだが、冬は気分が暗くなるものだ。
相合傘などという言葉は物語の中でしか聞いたことがなく、実際に味わったことのないシチュエーションだ。
だが、それはきっと相手の息遣いと体温が身近に感じられ、冬だからこそ相手の存在をより身近に感じられるのと同じで、相合傘でも愛しい一時を過ごせるのだろう。
1年前、私は受験生だった。
その時の私は偏差値に縛られていたように思える。そんなものに価値はないと口では言いながら、誰よりも気にしていた。
その結果として陥ったのは、自分を隠すこと。
授業中はずっと内職をして、他の奴らとは違うということをアピールしていた。
理系科目は得意じゃないのに理系選択をして、理系大学を志していた。自分が優秀であるということをアピールするために。
そして現在、私は結局文系の科目で受験をして文系の大学に通っている。
どんなに自分を隠そうが、本性は変わらない。虚栄心も自尊心もなにもかもかなぐり捨てていれば、今のように偽りのない自分と向き合うことができていたのだろう。
今思えば、何も無い自分を直視することができなかったから「理系大学を志す学生」「内職をする(マイノリティであることをアイデンティティとする)」という肩書に自分の存在を依拠していたんだろう。
何もなくてもいいじゃないか。私は何を焦っていたのか。
本は読むが、愛読書はない。
私が本を読む理由は他に楽しいことがないからというだけで、本を読む積極的な理由はどこにもない。
人生は選択の連続、とは言うが、私にはその感覚はない。何かをするときは「それ以外になにもすることがない」という感覚を持って物事に取り組んでいる。
人間には好き嫌いがあるだろう。だが、そもそも「好き」や「嫌い」という感情は実際の所何を表しているのだろうか?
感情ほど明確に定義付けができないものはないように思える。実際の好き嫌いを言うことでしかその実態はつかめない。
私の好きは……やはり彼女だ。名前を言うことは憚られる。名前を呼ぶにはあまりにも崇高すぎて、心の中に留めておくのが一番身近に感じられる。
私の嫌いは……嫌いという感情はとっさに現れては消えていく存在だ。明確にこれが嫌いというものはない。感情は刹那的で、嵐のように私の中で暴れまわり、私の全てを支配したかと思えばいつの間にか過ぎ去っている。こんなものについて何を語ることがあるというのだらう?