たくさんの想い出(2023.11.18)
きっと、あなたもわたしも、日々に一喜一憂して生を全うしているけれど。喜びも、悲しみも、苦しみも、怒りも……全て最期は灰になる。
わたしの気持ち、あなたの気持ちは、わたしだけの、あなただけのもので、誰もそのまままるごと他人の気持ちを分け合うことはできやしない。
けれども想い出は。たとえ色褪せても、欠け落ちても、二人の間に確かに在り続ける。感情は一時のものでも、想い出がその感情を思い出させてくれる。
何もかも塵となるとき、思い出す想いの多い人生でありたい。
秋風(2023.11.14)
和歌などにおいてはたまに見られる「秋風」という言葉だが、普段はなかなか感じられる機会がないように思う。特に、今年のような0か100かしかないような気候においては。いや、もしかすると、私の風に対する感受性が乏しいだけなのかもしれない。そう思うと、春風や冬の冷たい北風だけでなく、夏から秋の季節の絶妙な変化を感じさせる「秋風」を感じられるような風流人になりたいものだ。
意味がないこと(2023..11.8)
唐突な話だが、思春期というやつはどうにも厄介なやつで、まるで世界が理不尽だらけで正しいのは自分だけ、なんて気持ちになることがある。しかもこいつは避けようがないというのだから、さらに始末が悪いのだ。
例に漏れず私も、そんな思春期というやつに取り憑かれたことがある(もしかしたら現在進行形かもしれないが、人は過去しか振り返れない生き物なのだ)。
親の言うこと、学校で言われること、友達のしていること……なにもかもが非効率で、道理に合っていない、無意味なことのように思えた。みんな、もっといいやり方を考えたらいいのにと思った。
冷静に考えてみればそんなことはないし、自分の考えこそが正しいのだという私こそ幼稚きわまりないのだが、何事も当事者というのは往々にして視野狭窄になりがちだ。時折ふっと我に返ると、そんな自分に嫌気がさし、気分が憂鬱になって、さらに視野狭窄になる。そんな悪循環を繰り返していた。
ある日、食事が不味くなった。とは言っても、本当に味が変わったわけではない。心が疲れすぎて、物を食うということに楽しさを見出せなくなってしまったのだ。幸い、しばらく休養を取れば何の問題もなくなったが、今思えば、そこが私の思春期の一区切りだったようだ。
食事が美味しいと感じられる、よく眠れる、他人の話を面白いと思える……こんなことは些細なことで、別になくなってもなんともないと思っていた。しかし、これは使い古された表現になるが、失って初めてわかるというやつで、別に深い意味がないものこそ、失ってしまうと愕然とするのだ。特に意味のない、大切でもないと思っていたものこそ、わたしをわたしたらしめている、礎だったのだと、やっと気づけたのである。
あなたとわたし(2023.11.7)
「あなた」という言葉には「貴方」「貴女」などいくつか表記の種類があるが、その語源を調べてみると、平安時代に使われていた「彼方(あなた)」、遠方を表すものが、江戸時代頃から二人称のyouを表すようになったらしい。
「わたし」の方はもっとわかりやすくて、平安の頃の「公」に対する「私(わたくし)」、私的なことを表す語がそのまま使われている。
「わたし」の方はともかく、「あなた」が遠方、手の届かないところを表すというのは、恋しい、もしくは憎らしい「あなた」への激情を表す言葉としてなんとも相応しいと思う。
永遠に(2023.11.1)
永遠とは、往々にして手に入らないものである。
永遠の命も、永遠の愛も、永遠の平和も。
ありえないとは言い切れずとも、あるとも言い難い。
ちょうど、宇宙の果てに触れがたいのと同じように、果てがないから、終わりが見えないからこそ、不安や憧憬の念を抱いてしまう。
だが、死は永遠だ。覆水は盆に帰らず、霊魂に再び生が宿ることはない。
やはり、永遠とは、人生の最大の幸福にして、最大の不幸なのである。