彼はパリ北駅のコンコースに足を止めた。
人々が皆どこかへ向かって急ぎ足で進んでいる。
しかしその流れから逸れた彼はひとり佇む。
賑やかな雑踏の中で、まるで彼だけが浮いているかのように孤独に包まれる。
この場所は、人々が自分の目的地を見据える吹き溜まりなのだ。
ここパリ北駅で一人になると、心に埋もれた本当の目的が顔を出すことを彼は知っている。
孤独の中にこそ彼の真実があるのだ。
「だから、一人でいたい」
画家である浅倉慎也はその澄んだ瞳で世界を見つめていた。
目の前に広がる美しい景色も、時に残酷な光景も、ただありのままに観察する。
評価や判断を手放し心を無にして、存在の本質を感じとるのだ。
来たるべき時、その沈静さはほぐれる。
硬く結ばれた紐の後ろに潜む世界の真意が少し明らかになる。
それは決して遠くにはない。
世界の方からその意味を語りかけてくるのだ。
その時、彼は世界の奥深い一端を表現することが芸術の役割だと感じる。
「澄んだ瞳」
嵐が迫る中で君は必死に逃げようとする。だが嵐は巧妙にその向きを変え君を追いかけるように襲ってくる。
君は、恐れに揺れる感情に飲み込まれそうになる。
それでも君は嵐の渦の中を力強くやり過ごそうとするのだ。
嵐の流れは予測不可能で、
混乱の中にいると、その瞬間のことも忘れてしまう。
そして、時が過ぎ去った後に振り返れば、君自身が以前とは異なる存在になっていることに気付く。
嵐とは時の傾きであり、時の流れそのものなのだ。
君は、時を見極める可能性を自分に見つけ出し、自分の翼を信じることが出来るようになっているかもしれない。
「嵐が来ようとも」
フランス留学中の浅倉慎也は、作品の独創性を模索し続けていた。
彼はルイーズミッシェル広場の芝生に横たわり、深い青空を見上げていた。
紺色に近い空に浮かぶ真っ白な雲がそっと切れ、眩しい陽射しが差し込む瞬間、彼の中に何か特別なものが舞い降りてきた。
まるで神の啓示のように。
この時、彼の作品の方向性が確立されたであろう。
のちに「セキュエンタリズム」と名付けられる彼のオリジナル手法が、ここで生まれることとなったのである。
「神が舞い降りて」
空気椅子スクワットで筋トレをしているドリッキィが、友達と5人で居酒屋に行ったんだ。
そこのお店の人から
「すみません、今、4人掛けテーブルしか空いてないんですよ」
って言われたけど、ドリッキィは
「大丈夫です」
と爽やかに席に着くのさ。
そして、ドリッキィは空気椅子にチャレンジする。
「だってみんなにはすぐに気持ちよくテーブルについて欲しいし、待たないのが一番だよ。
それに、これで太ももと体幹も鍛えらるから、自分のためにもなるしね」
ってご機嫌なんだ。
でも、椅子取りゲームのときはみんなから「ドリッキィの空気椅子は無しだぜ」って制限されちゃうのがすごく残念で、ちょっと悲しい思いをしてるのは、可愛いよね。
「誰かのためになるならば」