「勿忘草」
私には恋人がいた。
彼は、いつも優しくて、とてもいい人だった。
歩く速さを自然と合わせてくれる人だった。私が立ち止まれば何も言わずに待ち、視線がショーウィンドウに向かえば、さりげなく「見ていく?」と聞いてくれる。そんな些細な気遣いを、私は愛していた。
彼が一緒に街に行こうと誘ってきた。
私は喜んでその誘いに頷き、特にこれといった目的もなく、ゆったりと二人で時間を過ごした。
賑わった商店街に入る。
何やら前方が騒がしい。人々がざわつき、次第に道の中心が空いていく。
その隙間を縫うように、一人の男が走ってきた。
手には、刃物が握られている。
「危ないっ!」
彼が私を突き飛ばした。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
転んだ衝撃で視界が揺れ、遅れて振り返る。
そこに、血溜まりの中でうずくまる彼がいた。
何を、しているのだろう?
なんでここに、こんなに血が……。
あぁ、そうか。
彼は私を庇って、刺されたのだ。
この出血では、もう助からない。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
誰かが叫ぶ声が聞こえる。
鼓膜が、やけに強く震える。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
喉が焼けるように痛い。
息が、うまく吸えない。
――――叫んでいるのは、自分自身だった。
その後のことは、よく覚えていない。
気づけば私は、ふらつく足で自宅に戻っていた。
机の上に、手紙が置かれている。
一輪の、小さな花が添えられていた。
それは、彼の筆跡だった。
『先に謝らせてほしい。本当にごめん。
今日こうなるように、少し前から準備してたんだ。
君に危害が行かないようにしっかり人選したんだよ。
これを読んでるってことは、無事に家に帰って来れたんだね。
よかった。
目の前で僕が死ねば、君の中に僕だけが残ると思ったんだ。
君の人生に僕を刻み込めると思ったんだ。
ありがとう。
君に看取られる僕は、きっと幸せ者だ。』
手紙を置く。
視線が、花に落ちた。
小さくて、淡い青色の花。
彼が好きだと言っていた花だ。
「勿忘草」
花言葉は、「私を忘れないで」。
私にとってこの花は、最後に彼が遺した最上級の呪いだった。
「あなたに届けたい」
僕は外で声が出せない。家ではあんなに家族と楽しくおしゃべりできるのに。
今日はクラス替えをしてから初めての学校。教室に入り、自分の席を探す。窓際だ。よかった。両隣に人がいるよりずっと気楽で、教室の中で一番好きな席だ。
席に座って一息ついたところで不意に声をかけられる。
「はじめまして。なぁ、名前なんていうの?」
あぁ、まただ。わかっていたことだ。わかっていたことだが、それでもこの時間が一番嫌い。声をかけられると、自分の喉は石になってしまったと勘違いするくらい重く、固くなる。心の中ではその声に答えたくて叫んでいるのに。
緊張と申し訳なさで目が合わせられない。声も、出ない。
「なんだよ。無視かよ。」
ベーっと舌を出して威嚇してから去っていく。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい
また嫌われてしまった。ほんとは、みんなと仲良くしたいのに。いつも同じところで立ち止まってしまう。
「ねぇねぇ。はじめまして。僕、ユウタっていうの。おとなり同士、よろしくね。」
答えられない。一秒、また一秒と時間が経つにつれて空気が重くなっていくのを感じる。周囲は騒がしいはずなのに、時計の針が動く音が脳に響く。結局、彼の言葉に答えることはできなかった。
それでも彼は、毎日話しかけてくる。
「おはよう。」
「(おはよう!ユウタくん!)」
「今日の給食なんだろうね。」
「(なんだろうね。こんだてひょう一緒に見にいこう!)」
「ねぇ、みてみて。折り紙でカエル作った。君にあげる!」
「(ありがとう!上手だね。すごい!)」
「あ、消しゴム落ちたよ。よいしょ…。はい!」
「(ありがとう)」
言いたいことはたくさんあるのに、それらはすべて僕の喉から出ることはない。彼に言いたかった「ありがとう」がお腹の中に溜まっていく。それでも彼は、何を言っても答えない僕に対して、他の子と何も変わらない態度で接してくれた。
明日。明日こそはちゃんとお礼をしなくちゃ。
「おはよう」
彼がいつも通りの優しい声で挨拶をしてくる。
今だ!
昨日の夜、家で何回もシミュレーションして準備をしてきた。その成果を発揮する時が来た。
机のお道具箱から、算数で使うホワイトボードとボードペンを取り出す。
ありがとう
緊張で手が震えて文字が歪んでしまった。余計な力が入っているせいで書くスピードも遅い。
それでもバッと彼の前に突き出す。
下を向いているせいで彼の表情は見れない。
一拍間があって、彼の今までにないくらい明るい声が鼓膜を震わせる。
「うん!どういたしまして!」
それは、声のない、僕と彼との初めての会話だった。
まだ彼の目を見ることはできないし、ホワイトボードじゃないと会話ができないけど。声が出せる日がいつ来るのかわからないけど。いつかちゃんと、彼の顔を見て、自分の声で、自分の意思で、ありがとうと言えたら。彼はどんな反応をしてくれるのだろうか。
「逆光」
僕は負の感情で頭がいっぱいな時に、一番生きている実感が湧く。エネルギーが、体の奥から満ちてくるからだ。
それに、幸せな時間ほど記憶に残らない。
幸せな時間があるからこそ負の感情が生まれるのに。
幸せになりたいから苦しむのに。
――おかしな話だ。
幸せな時間を何かに例えるなら、それは「光」だろう。
明るくて、眩しくて、温かい。
それゆえに、直視できない。
だから僕は、その光によって生み出された「影」を見つめて生きている。
「タイムマシーン」
もし、会いたい人に会えるタイムマシーンがあったなら。
同じ時を呼吸し、明日の行方に一喜一憂する。そんな「今」を生きる人たちが、時折ひどく眩しく見える。私の心は今、ここにない。八十年という歳月の彼方に、ぽつんと置き去りにされているのだ。
その人の名を思うたび、喉の奥がわずかに詰まり、胸が内側から締め付けられる。けれど私は知っている。その人がどんな道を歩み、どこで生涯を終えたのかを。すでに閉じられた結末をなぞるだけの追慕に、未来への期待は最初から存在しない。私は、彼の生きた声を知らない。言葉を選ぶときの沈黙も、眼差しが揺れる瞬間も知らない。ただ、記録と想像の中で、その人を想うしかない。
もし一度きりでも、同じ空気を吸うことができたなら。
同じ時代の重さを、同じ温度で感じることができたなら。
私は、今よりもずっと、自分の「生」を愛せたかもしれない。
「美しい」
「人はそれぞれ感じ方が違う」とよく言われますが、私は周りとは、少し違い過ぎているのではないかと、疑わずにはいられないのです。人は、宝石や空や海を見て、立ち止まり、息を呑みます。そして、人の顔を前にして声をひそめます。私にはそれらが、床に落ちたジャムのような、身の毛がよだつほど不快で、ひどく無機質なものに見えてならないのです。
「へぇ、君はいつコントラリアンになったんだい?」
そう言う人もいるでしょう。しかし、これは私の心の内なのです。人々が同じ方向を見て頷く、その空気の輪郭を、私は掴むことができません。近づけば壊れてしまう気がして、薄氷を踏む気持ちでいつもオドオドしなければなりません。
…美しい
その言葉によって、深く、修復しようもなく傷つくものも、あるのです。