→積乱雲の下に雨の兆し。
シャワーの音と湯気にあふれたバスルームで、彼女は髪を洗っている。
新しいシャンプーの香りは、昨日まで使っていたユニセックスのさっぱり系とは違いフローラルだ。
買ったばかりのヘアケア商品やフェイスパックが、使い差しの色々を押しやり、作り付けの小さな収納棚の隙間を埋めるように詰め込まれている。
しっかりと泡立てたシャンプーの泡の塊に包まれた長い髪を頭上に乗せた姿のまま、彼女はふと耳を澄ませた。バスルームの向こうにある1DKの部屋からはどんな音も聞こえてこない。昨日まであった物音はもうどこにもない。
ひとけの無さに彼女は唇を歪めた。鼻から熱い息が漏れる。鏡に映る白い雲を乗っけた姿が歪んだ。小さな嗚咽が漏れた。
明日、彼女は髪を切りに行く。
テーマ; 入道雲
→夏、来訪
つい今しがた、夏から電話がかかってきた。
電話の向こう、ハキハキ話すその声に、原色の青色に浮かぶ入道雲を思う。
大きな旅行鞄を手に入れたと嬉しそうに笑っている。
「これで長期滞在もお土産もバッチリ!」
しばらく他愛のない話をして、私たちは受話器を置いた。
あっ! しまった! お土産って熱気パウダーだった! 少しでいいよって伝えようと思ってたのに忘れてた!
熱気パウダーは太陽専用のお化粧品。地元の名産だからと夏は必ずお土産に持ってくる。太陽は大喜びして厚化粧になる。暑いのが苦手な私はバテバテ。夏来訪の風物詩。
窓から生ぬるい風が吹き込んできた。
「仕方がない。なんとか乗り切ろう」
今年も、暑くなる。
テーマ; 夏
→短編・転移屋台のデューイ
まぁまぁ、お客様! よくいらっしゃいました! どちらからおいでに? あぁ、海岸通りからですか。あちらもずいぶんと様変わりの恋代わりで筋違いだって話じゃないですか! 物騒な世の中になったもんですねぇ。護身術なんてものの役にも立ちゃしない。やっぱりこういうご時世には全身泥パックが一番よく効くそうですよ? 一度お試しあれ。
さぁ、こちらにどうぞおかけくださいな。淹れたてのネギ茶をどうぞ。これを飲めば喉はスッキリ、気分はサッパリ、首はポッキリの頭はコロリン。嫌ですよぉ、そんなに驚いた顔をなさって! 首だ頭だは冗談! この街のお作法みたいな常套句じゃないですか! え? 初めて聞いた? あ、そうですか。まぁ、そうかもな。
お客様、お仕事は海の沖ですってね。大手ですねぇ~。まぁ、そうでしょうねぇ。お客様みたいな立派なトサカとウロコをお持ちの方ってのは、そうそうお目にかかれやしませんもの。生まれながらのヤングステップエグゼクティブ! 私みたいな髭持ちには羨ましい限りです。
海の沖といえば、私が子供の頃はあの辺りは珊瑚の野っぱらだったんですよ。それが今じゃすっかり新都心ですよ。いやぁ~、時の流れの恐ろしオソロシウッシッシ。
あぁ、すいませんすいません。私ばっかり話しちゃって。はいはい、ご依頼は糸電話でお伺いしましたけど、念のため確認させてくださいね。ここでないどこかに行きたいのAコースでよろしかったでしょうか?
最近多いですねぇ~、どこかに行きたい人。多次元異世界過去未来不問but now症候群、略してバトナでしたっけ? いやはや、私なんてここで生きるだけで精十杯ですけど、恵まれた方にもそれ相応の悩みがあるってことですか? じゃあ、やりますか! 時空転移手術。
えーっと、荷物はそこにおいてください。こっちに来て横になってください。動かないように固定!しますね!!ーっと! 息苦しい? ちっぽけな我慢ですよ。行くんでしょ? ここじゃないところに。
はぁ、でも、どんなところなんでしょうねぇ、ここ以外の場所って。んー、ちょっと考えたんですけど、私たち人間の形がほとんど同じ世界とかだったらどうしますぅ? 丘を泳ぐ自由もなく、海の中で生活できず、陸をただ歩くばかり。今みたいな瞬間移動する筋肉もなくて、何かに頼らなきゃ遠いところまで移動するのに時間がかかる。飛べる人もいない世界。地べただけが唯一の生きる場所。
あれ? 急にどうしたんです? そんなに目を見開いて。あっ、もしかして怖がらせちゃいました? こいつぁうっかりスッテンテン。でもね、安心してください。私の考えることなんてね、あなたたちバトナと一緒ですべて妄想ですよ。ここ以外の何処か、なんてねぇ〜。時空転移手術って! 与太話にもほどがあるって! 濡れ手の粟がザックザク〜。イヒヒヒヒヒヒヒヒ!!!! すいませんすいません、つい本音が……。
よっこいしょっと! 顔が動くからって暴れない暴れない。もうすぐなぁんの痛みもなくなりますから。
――ね? 私のカモネギさん。
テーマ; ここではないどこか
→短編・小さなソフィーとラブレター
ママはパン屋のアンヌとずっとおしゃべり。ママのエコバッグから飛び出してるセロリの葉っぱが「もう疲れたよ」って首を振ってる。その気持ちよく分かる。
「ねぇママ? ジェロームのところに行ってもいい?」
ママの袖を引っ張って隣にあるブロカントを指差す。
「いたずらしちゃダメよ」
失礼だなぁ~、私もう5歳だよって思ったけど、面倒くさいからウンウンって頷いておいた。
「こんにちは~」
お店のドアを開けるとカランカランとベルが鳴った。ジェロームのお店は古いものがいっぱい詰め込まれてる。私はこのお店が好き。望遠鏡、古い本、羅針盤、使いかけのチョーク、クッキーの缶…。ここでパパに買ってもらったジャムの瓶は私の宝物。
「やぁ、ソフィー」
ジェロームはお店の奥にいた。難しい顔で大きなキャビネットの扉を開けたり閉めたりしている。その度にキャビネットは悲しそうにキィキィ鳴いた。
「何してるの?」
「メンテナンスさ。昨日コイツを仕入れたばかりでね。どうやら蝶番の具合が良くないようだ。付け替えてやらんとな」
そう言うとジェロームはお店の2階に大工道具を取りに行った。
私はキャビネットに触れた。そっと扉を開ける。大きな空間。かくれんぼできそう。
エイヤとキャビネットの中に入り込む。秘密基地みたい。でも埃っぽいな。こんなところママに見つかったら呆れられちゃうかも。出よう。
「ーー?!」
のそのそと動き出した私の手が何かに触れた。変なものだったらどうしよう……、恐る恐る確認する。
「紙?」
それはキャビネットの底板の割れ目にねじ込まれていた。取り出してみると手紙のようだ。古い紙だなぁ。カリグラフィーみたいな字だ。きれい。難しい単語がいっぱい。私が読めるのはーー
「きみ、と、さいごに、あった、ひ、が、わすれられない」
もしかしてラブレター? でもでも、最後に会った日ってことは、もう別れちゃったのかな?
他に読めるのは「自転車、ボタン、ピクニック……」
「おーい、ソフィー? ピクニックがどうした?」
いつの間にかジェロームが戻っていた。私は手紙を差し出した。「こんなのが入ってたよ」
手紙を手にしたジェロームは頭の上の老眼鏡を鼻に乗せて手紙を読みだした。
「ねぇねぇ、これってラブレター? 自転車とかボタンがどうしたの?」
私の声、聞こえてないみたい。ジェロームの顔がどんどん真剣になっていく。最後には片手で額を叩いた。ーパチン!
「こりゃ大発見かも知れんぞ!」
「そうなの? 誰か有名人の手紙?」
「あぁ、ある作家の書いたラブレターの可能性がある」
「どうしたの?ずいぶんと賑やかね」
あっ、ママ。パン屋のアンヌも一緒だ。ジェロームが二人にラブレターの話をし始めた。あー、二人が会話モードに入った顔になっちゃった。こうなるとお手上げ。大人だけで盛り上がり始める。ホンモノかどうかとか、価値がどれくらいだとか、bla bla bla…… 。
夜、ベッドに寝転がって宝物のジャムの瓶を振った。ジャラジャラジャラ。ガラス瓶に当たって音を立てるのは、ママに集めてもらったたくさんのボタン。
もし恋人たちの最後の日が、ボタンと自転車とピクニックに関係してるなら、私も用心しなくっちゃ。ボタンが何に役立つか分かんないけど、無いよりある方が良いような気がする。
今、ママとパパは一緒に住んでいない。冷却期間なんだって。
二人の『最後に会った日』なんて来させないぞ! 私が守ってあげる!
私はもう一度ジャムの瓶を振った。ジャラン!
テーマ; 君と最後に会った日
→そこに宿ると信じるもの。
ガラスペンのペン先は蕾。さぞかし美しく繊細な花が咲くだろう。
私はその日を夢見て、インクという養分を与え続ける。
花よ、開け。
テーマ; 繊細な花