お金より大事なもの?
そんなものいくらでもあるよ。友達とか、家族とか、
恋人とか。お金には代えられない大切なものさ。
君はその限りじゃないけどね。
何となく体調が悪いとき。何となく胸がざわざわするとき。そんな状態のとき、私の双子の妹が体調を崩したり、事故に遭ったりしていることがある。遠く離れた実家で暮らす妹の環境と、私の心身がリンクしているかのような感じ。ネットで検索してみると、他の双子の人たちも同じようなことがあるらしい。DNAの話だろうか、それともスピリチュアル的な?詳しくはよく知らない。良い言い方をするなら、絆ってやつなのだろうか。
ある日、仕事中に酷く頭が痛んだことがあった。そして、何だか落ち着かないような、嫌なことがあるような予感。私はすぐに妹に連絡をした。何でもないような感じで。
「久しぶり。元気してる?なんか私今体調崩しちゃっててさ」
妹の身に何かがあれば、同調してくるだろう。返信はすぐに来た。
「そうなんだ、私もインフルかかっちゃった…。お互いお大事にしようね」
やっぱり。私は妹を心配しながら、お大事に、というスタンプを送った。
近頃、3年ほど付き合っている彼氏の言動が乱暴になってきた。ふとした事で大声をあげたり、物を投げたりと手がつけられない。仕事でのミスを上司に咎められたことがきっかけらしい。彼のことはまだ好きだが、このままだと私に直接手をあげられる日も遠くないかもしれない。夜が来るたびに、彼がいびきをかきながら呑気に眠っているベッドの横で声を殺して涙を流す日々が日常となった。
そんなある日、机の上に置かれたカッターナイフが酷く光って、頭にこびりつくような印象を私に与えた。いつも段ボールを崩すときに使う、何でもない普通のカッターナイフ。それなのに、どこか特別なものに思えて、私を呼んでいるかのようで。無意識のうちに私はそれを手に取り、喉元に突きつけるかのように翳していた。胸がすっとするような、不思議な感覚。このまま勢いよく喉を突いてしまえば、この気持ちから逃れられるのかと思うと、手が快感に震えた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
私は久しぶりに笑顔を溢しながら、それを大きく振るって、私を貫いた。
〜〜〜
ずきん。刺すような痛みが、私の頭を襲った。ずき、ずき、ずき。重くて、鈍くて、しつこい。息も苦しくて、私は思わず床へと崩れ落ちた。はっ、はっ、と息を切らしながら自分を落ち着けようと目を閉じて、出来る限り息のペースをゆっくり、深くしようと試みる。少し時間はかかったが、私の身体は僅かに重いくらいである程度普通に戻った。だけど、何だか嫌な感じ。体調だけじゃなくて、心が。ざわつくような、急き立てられるような。私は何となく、お姉ちゃんに連絡を入れてみた。もしかしたら、お姉ちゃんも同じような体調かもしれない、なんて思って。
「お姉ちゃん、久しぶり。低気圧のせいかな、頭がめっちゃ痛くて。お姉ちゃん大丈夫?」
何日経っても、お姉ちゃんからの返事は無かった。それどころか、私の耳に届いたのはお姉ちゃんが亡くなったという事実だけだった。
お姉ちゃんは私とお姉ちゃんとのリンクを、絆かななんて笑っていたけど。こんなの。
「無欲な人ね」
彼女は眉を下げて笑った。僕への愛情か、僕をつまらない奴だと感じているのか、どちらとも言えないような表情で、僕は少し困った。
「どういう意味?」
我ながら間の抜けた声を出してしまったと思う。でも、聞かずにはいられなかった。もし、つまらない奴だと笑われていたのだとしたら。
「…優しい人ね、って意味よ」
今度はどこか悲しげな表情だ。言葉と表情があまりにも一致していなくて、僕はさらに困ってしまった。伏せられて、長い睫毛の垂れたその瞳はどうしてそんなにも寂しそうなのだろう。
「本当に?」
僕は馬鹿だ。彼女の気持ちなんて察せない。言ってくれなきゃ、分からない。言葉に釣られるようにして手が伸び、彼女の手首を掴んでいた。そのとき、僕は確かに見た。彼女の瞳に一瞬、光が宿るのを。嬉しそうな、好奇心が湧き立ったかのような、不思議な光。
「痛い、離して」
光が見えたかと思うと、彼女は顔を背けてそんな事を言った。僕は慌てて手を離して、悪い事をしたと彼女の顔色を伺った。その顔には、何故か失望の色が滲んでいた。そんなに痛かったのか。軽く掴んだだけだと
思ったのに。
「ごめん。本当にごめんね、つい…」
「そうじゃない」
僕が言い終わる前に、彼女はぴしゃりと言葉を刺した。僕の方に向き直った彼女は、どこか怒ったような、もどかしいような表情を浮かべていた。そして次の瞬間には、その瞳に涙の粒を浮かばせていた。
「…どうして、私に欲情しないの。乱暴に、滅茶苦茶にしたいと思わないの。私ってそんなに魅力が無い女なの」
彼女に言われた通り、僕は無欲な男だ。だから、彼女の事も、彼女の抱く欲望の事も何も分からない。理解の及ばない世界。何だか面倒くさい、と思った。
僕は何も欲しくないし、何も望まない。だから、彼女にも何も欲さず、何も望まないでほしかった。その方が面倒じゃない。楽だ。
これが僕の欲望だったのかもしれない。
彼女は遠くの街へと引っ越したらしい。そうか、と僕は一つ頷いて納得した。そんな気はしていた。もう二度と、彼女は僕になんて会いたくないだろうから。
僕が足繁く通っていた、郊外のアパートの302号室。彼女はここで暮らしていた。パックご飯をチンして食べ、ぎしぎしと軋む安いベッドで眠っていた。僕も、たまに一緒に。楽しかったんだ。
彼女のことは本当に好きだった。可愛くて、優しくて、僕のことを好きでいてくれたから。だけど僕は、そんな彼女の気持ちにつけ込んだ。ただの軽口が暴言に変わり、柔らかな触れ合いは暴力に変わった。僕のことが好きなんだろ、という思い込みで、彼女をここに縛りつけた。それでも僕は、決して彼女を傷つけたかったわけじゃない。愛していたんだ。
突如彼女は僕の目の前から姿を消した。もう、耐えきれなくなったのだろう。彼女にLINEをブロックされたことに気がつき、この住所に彼女がもう居ないことを知ったとき、やっと僕は自分の犯した過ちに気づいた。彼女は僕を愛していたから僕の側を離れなかったわけじゃなかった。僕を恐れていたから動けなかったんだ。彼女はもう、僕のことなんて好きじゃなかった。
僕は彼女の日記を手にしながら涙を溢した。熱い頬に流れる冷たい涙が酷く不快だった。彼女はどこに行ったのだろう。探さなくちゃ。探して、謝らなくちゃ。僕は本当に自分の行いを悔いて、改めるから。だから、また一緒にいてくれよ。
ぜったいにみつけるから。ぼくはきみをあいしているから。きみもぼくをまたあいしてよ。
からりと茶色にしなびた葉が地に落ちる。硬く、空虚な音を立てながら。
私と手を繋ぎながら歩く翔くんは、枯葉を踏むたびに鳴る、かしゃかしゃとした音を聞いては嬉しそうにはしゃいだ。彼の赤色のスニーカーが、茶色の枯葉の上で踊る。
「あはは、がさがさしてて楽しい!」
私の手を離し、足音を踏み鳴らしながら走り出す翔くん。飛び跳ねたり、スキップをしたり、両手でかき集めた葉を空へと投げ放ったり。茶色の味気ない景色の中で、彼の姿がひどく眩しくて、愛おしかった。
「こら!汚いからやめなさい」
私と翔くんの後ろから歩いてきていた香織が翔くんを叱る。私は、私に言われたわけではないのに思わず首を竦めてしまった。
「そんなに怒らなくていいじゃないの」
香織の方に向き直ってそう宥めると、香織は首を横に振った。
「若葉みたいな綺麗なやつならまだ良いけど、枯葉って何だか嫌じゃない。死んだ葉っぱでしょう?それに破れやすくて服にくっつきやすいし。誰が翔の服を洗うと思ってるのよ」
死んだ葉っぱ。嫌な言い方だ、と私は思った。ただ、長い間生きただけの葉だ。新しい世代に若さを手渡した先達と言ってもいい。私は、香織の冷たい言い方に目を伏せてしまった。
「僕は枯葉好きだよ!」
いつの間にか、私の傍らに翔くんが戻ってきていた。
その頬は寒い中はしゃいだせいか林檎のように赤く染まって、その息ははっ、はっ、と弾んでいた。
「なんかおばあちゃんみたい。かさかさ言いながら僕と遊んでくれて、それなのに茶色くて大人っぽいの。だから好き。おばあちゃんと同じくらい好きだよ!」
そう言って翔くんは私の腕に抱きついた。突然のことに僅かにバランスを崩すが、すんでのところで耐えて翔くんに向かって目を細める。
「ありがとう。私も翔くんが好きだよ。お母さんを困らせないように、服に葉っぱが付かないように気をつけて遊ぶんだよ」
この若葉も、いつかは私のように枯れていく。ただ、それまでの時間を美しく、たくましく送ってくれることを祈る。そして、かさかさと無邪気に音を奏でながら次の若葉達の良き先生に、良き遊び相手となってくれることを。