『嵐が来ようとも』
私は…私らしく生きるしかない
誰かに染まるのは簡単だ
見本がいるのだから
だけど、どの誰かに染まったとて
私には違和感しか残らなかった
見本がいるのに真似は出来ない
発達障がいの傾向があるせいか!?
それとも、そもそも個性が強いのか!?
理由はわからないが…
何かに属するのが苦手なのだ
女子は特に、幼い頃から絶対的な
協調性を求められる
群れたがる
これが、どうやっても無理だった
いや…それなりに頑張ったけれど
自我を失った
それは家庭内でも同じで
6つ上の姉と毒母との絶対的な協調性に
ついては行けず
小学校3年生から自室が出来たのと同じ頃から
家にいても部屋にこもった
結局、どこにいても協調性というものに
馴染むことはなかった
かと言って、思春期を境に
男子とばかり仲良くする私は…
女子からは僻みの対象になり
媚びてるとか、ぶりっ子となった
恐らくこの年齢になった今も
その部類に位置する
が、
別に媚びてるつもりもなく
ただ単に、ネチネチしていない世界が
心地よいだけだ
が、これは恐らく…
女子世界では死ぬまで通用しない
老後もなお続く課題だろう
だが、もう私にはどうでもいいのだ
例えこの協調性という
『嵐が来ようとも』
何度も何度も来ようとも…
無理なものは無理だ!
鬱やパニック障害を発症したからこそ
尚更、無理なものは無理なのだ
だから
私は私でいい
誰かに染まる必要はない
協調性がなくても仕方ない
ジェンダー問題も含めて
人種差別も含めて
みんな違っていいじゃん!
みんな違うから
魅力的なんだと私は思うの♡
だから
何度『嵐が来ようとも』
私は私をやめない!!
『神様が舞い降りてきて、こう言った』
「これからは…
自分のために生きて良いんだよ!」
これは
自分軸で生きてこなかった私からしたら…
衝撃だ
そして、愛着障害の私からしたら…
そう言われたところで
どうしていいのかわからない
最初は自分の好きなこと、好きな物すら
わからなかった、思い浮かばなかった…
好きな食べ物すらね…
他人軸で生きてくると
そんなことすら分からないんだよ
怖いでしょう!?
それからは
自分探しをしているの
何が好きで何が嫌いなのか?
それらは今まで
何が得意か何が苦手か?っていう
答えにしかならなかったの
好きや嫌いで判断してはいけないという
無意識だったのね
だから正直、今でも分からないことが多いし
言葉て表現する事が難しい
嬉しい、悲しい、イライラはわかるのに
言葉にならないの
『誰かのためになるならば』
私の人生、ずーっとこれだった
過干渉の毒親に育つと
周りの顔色ばかりを伺うようになる
しかも
それは無意識に行われる
これによって勿論、傷つくのは自分だし
無駄な嫌な思いをすることになる
それに気が付かぬまま
パニック障害とうつ病を発症し
周りの環境に恵まれないまま
人生の半分を終えた
この「無意識」は厄介だ
でも今、友達にも大切な人にも恵まれ
初めてこの「無意識」に気がつくことが出来た
自分のために生きるんだよ
嫌なことは嫌だって言って良いんだよ
そう教えられた
それは多分、
普通の家庭に育った人にとっては当たり前で
簡単なことなのかも知れない
でも私には未知の世界で困惑している
どんなに嫌いな人にでも
嫌われるのが、嫌な顔をされるのが
なぜだかとてつもなく怖いのだ
たから「無意識」に
『誰かのためになるならば』の人生を
繰り返してきた
でも今は違う!
もう、十分やってきたんだ…
『誰かのためになるならば』の人生を
だから、これからは
「自分のためになるならば」の人生を
生きていきたいんだ!
今ならきっと出来る!
今はこんな私を理解してくれる人がいるんだから
『誰かのためになるならば』は一見聞こえはいい
でもそれで、自分が不幸になるのは
避けなければならない
もし、私と同じ様に生きてきた人がいるのならば
「もう頑張ったよ!十分頑張ったよ!
だから、自分のために生きて!」
そう伝えてあげたい
『友情』
私は…これを理解出来たのは
40を過ぎてからだ
一般的には遅いと言えるのだろう
もしくは
この年齢になって
それぞれ生きる環境が変化し
「友」と言える人が
居なくなる年頃なのかも知れない
携帯すら普及していない時代
家の電話しか連絡手段はなかった
だが毒母により、その電話すら繋いで貰えない
ただ単に「明日の持っていくものなんだっけ?」すら
繋がれないのだ
逆も然り
誰かに電話する時も、誰になんの用で電話するのか?
それによっては電話すら使用させてもらえない
こんな状況で、誰が「遊ぼう!」と誘えるだろう?
急に同級生が家に来たとしても同じだ
「どこの誰?私(毒母)あなたのこと知らないから
家の子とは遊ばせられないわ!」と…
尽く…誘いを勝手に遮断され
そこまでして遊びたいと思う子どもがいると思うか?
答えはNOだ
そうして友達と言える人が出来ることもなく
作り方も分からず
『友情』ということにも無縁で生きてきた
最初は職場の同僚という立ち位置から
今では「友達」と言える人が出来
真の『友情』とは互いに信頼し、
尊敬できる人なんだと、やっとわかった
遅すぎなのかも知れない
でもこの年でこういう仲間に出逢えたことは
逆にスゴイことなのかもしれないと思うんだ★
今までの上辺だけの『友情』には
信頼や尊敬は芽生えなかった
薄っぺらくて、直ぐに裏切る者も
また「友」だと誤解していた
でも違うんだね
嘘なく真っ直ぐにぶつかっても
それで例え意見が食い違っても
根底に信頼や尊敬があるから認め合える
私が思うに…
先ず否定してくる人は「友達」ではないね
先ずは受け入れてくれて、
間違いは間違いだと教えてくれる
それが『友情』だと思うし
『愛情』だと想うんだ
私は…愛着障害の子ども返りと共に
この『友情』と「愛情」を
今、学んでる!
みんなより遅いけど、私は…私なりに
少しずつ成長していきたいと想う♡
『もしもタイムマシンがあったなら』
⇑この題材、前にもあったような?
の前に…
皆様のおかげで、
♡もっと読みたいが1000件を超えました
ありがとうございます!
私の作品は、全てノンフィクションですw
心の調子次第で作風も替りますが…
ここでお話することで、
自身と向き合うことが出来ています
まだまだ心は未熟者ではございますが
また遊びに来てくれると嬉しいです★
さて本題
私は…
正直、死ぬほど
いや、何度も自身で自分を殺した
辛い過去ばかりだが
過去が変わったら…
恐らく今の自分に出会えないこと
今の仲間や大切な人に出会えないことを考えると
過去には戻らない選択をする
宝くじとか、競馬とか当ててもさ…
それってもう自分の運とかじゃなくてインチキじゃん?
そんなので本当に…幸せ!?って思っちゃう
自分で掴むから幸せなんじゃないの!?
かと言って
未来にも行かなくていい
未来の自分は幸せかどうかを知りたい気もするが…
行った先の未来に
もし自分が居ない世界だったとしたらと考えると
それはそれで耐えられないし
今、大切な人との繋がりがなくなってるかも!?
とか思うと…知らなくていい
知らないほうが幸せなこともある
だから…
『もしもタイムマシンがあったなら』
あっても
私は…使わない!
これが私の答え
私は…
過去に沢山傷ついた分
人の痛みを知っているし
今ある幸せは今、感じる
そう決めたから!
まだ起きていないことに怯えるのは
もう止めたいから!
だから、今を精一杯生きる!
私はそれで十分だ!!