胸の鼓動
心臓が一際大きく脈打ち、心臓から全身へ熱い血液が巡り、じんわりと体を温める。
放心状態の脳がこの大きく、そして早く鳴り続ける鼓動が耳元からではなく自分の胸から聞こえている音だと時間を掛けて理解していき、やがて脳と胸の鼓動が正常に戻り全てを理解した俺は、画面に大音量で悲鳴を上げる顔面蒼白の化け物の顔が映し出されたスマホを持ち主である友人の顔面に向かって思いっきり投げつけた。
1件のLINE
一日に一回、決まった時間に息子からLINEが来る。
要件は、ハートをプレゼントしました。
これが数年前に夫と大喧嘩して実家を出て行った息子からLINEゲームを通して届く唯一の生存報告だ。
目が覚めると
目が覚めると、隣でイケメンが寝ていました。
いや、誰ぇ???
「落ち着こう、クールになれ私」
とりあえず周りを見渡す。
自分がいるのは見慣れた寝室、さっきまで寝ていたのは自分のベッド、未だに隣で呑気に寝ている男と、いつもならリードを咥えてすっ飛んで来るはずの愛犬が居ない事を除けば普段と何一つ変化が無い。
という事は漫画やドラマでよくある昨日酔った勢いでというやつだろうか、と昨日の出来事を思い出す。
昨日は金曜日。
珍しく仕事が早く終わり、親しい同僚や友人と新しい出会いを求めてクラブへと言いたいところだが、悲しい事に私にはそんな事するほどの親しい同僚も友人も度胸も無く、早く帰ってその分愛犬と散歩しようと自宅へ直行している。
つまりはお酒なんて一滴も飲んでいなければ、見ず知らずの男を引っ掛けて持ち帰るような寄り道もしていない。
ならこの人は本当にどこの誰なのだろう?
「あのー、起きてください」
とりあえず起こしてみる。
「あのー! 起きてくださいってばー!」
全く起きる気配がない。
どうしたものかと一旦ベッドの上に腰を落とし、気持ちよさそうに眠る男を観察する。
触り心地が良さそうなくるくるの茶髪、そこら辺の女の子よりも可愛らしい顔はどこか西洋の血筋を感じさせ、縮こまっている体は一見細身だがよく見ると程よく筋肉が付いているのが分かる。
そしてさっきまで閉じられていたはずのアーモンド型の黒い瞳が私を見つめ返していた。
「うわあっ!?」
こういう時、咄嗟にきゃーと可愛く叫べる子が羨ましい。
「い、いつから起きてたんですか!?」
「んーとねー、ついさっきー?」
男は首を傾げながら答えた。
よかった、ジロジロ見てたのは多分バレてない。
「えっと、どちら様かお伺いしても?」
いくら細身で可愛らしくても男は男。
女の私が敵うわけないし、少しでも丁寧な言葉で和かに愛想を振り撒き平和的な解決を。
「えー? ご主人様何言ってるのー?」
「お前こそ何言ってんの???」
しまった、真顔で雑な言葉遣いになってしまった。
こういう時こそ番犬って必要なんだろうな、と考えたところで私は全く姿を見せない愛犬の存在を思い出した。
「そういえばポン太は!?」
「呼んだー?」
お前じゃない。
「あの、呼んだのは私の犬……」
「俺の事でしょー?」
だからお前じゃない。
「申し訳ありませんが、私には人様に向かって犬呼ばわりする趣味も無ければ自分をご主人様と呼ばせる趣味も無くてですね……」
穏便に平和的に尚且つとっとと出て行ってもらってポン太を探さなければと焦る私に感付いたらしく、男の表情が少しずつ険しくなっていく。
「ご主人様、俺を追い出すの?」
「いえ、その……」
「俺がこの先完全にトイと呼べなくなるほど大きく育っても、ポン太が一番可愛い、ポン太以外の犬は飼いたくないって言ったの嘘だったの?」
「どうしてそれを?」
それを知っているのは私とポン太だけのはず、と一瞬男に対して警戒を解いてしまったのが仇になった。
男が一瞬の隙をつき、覆い被さるように私を抱き締めた。
「ちょっと!?」
「みんなよりも体が大きくて売れ残ってた俺をご主人様が連れて帰ってくれて、ポン太って名前を付けてくれて、俺すっごく嬉しかったんだよ」
男の抱き締める力が段々強くなっていく。
「そりゃ毎日一緒に居れば少しくらい不満はあるよ?
お散歩行こうねって嘘ついて病院に行ったり、可愛くなろうねって言ってトリミングサロンに置き去りにしたり、俺の事ほったらかして人間の雄のぬいぐるみに夢中になったり、噛みちぎらなかった俺を褒めてよねー」
「ちょっと待って」
今聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
「でもね、俺そんな事すぐどうでもよくなるくらいご主人様が大好きだし、毎日幸せだよ」
抱き締められた状態からでは見えないが、きっと今の男はポン太そっくりの幸せそうな顔をしているのだろう。
「あの……そろそろ離して……」
強く抱き締められ続けているせいなのだろうか。
すごく暑くて、息苦しくて、意識が少しずつ遠のいていく。
意識が落ちる直前に見たのは、私が予想した通りの幸せそうな笑顔だった。
再び目が覚めると、見慣れたトイプードル姿のポン太が私の胸の上に乗り上げながら顔を覗き込んでいた。
どうりで息苦しかったはずだと、ポン太を抱き上げベッドから起き上がった。
「おはよう、ポン太。
今日ね、ポン太がイケメンになった夢を見たんだよ」
随分とファンタジーで飼い主に都合の良い夢だった。
でも一応念のため、推しぬいはポン太が届かない場所に保管しようと思う。
七夕
「今年の七夕は晴れかい?」
「そうかもね」
映し出されているテレビに映るお天気アナウンサーが日本列島の画像に指し棒を当て解説する。
今年の七夕は午後もずっと晴れらしい。
「今年は織姫様と彦星様は会えるんだね」
よかったよかったと呟きながら窓の外を眺める曽祖母はとても嬉しそうな顔をしていた。
テレビ番組が天気予報から情報バラエティに変わり、七夕の日に因んだスイーツやデートスポットの紹介が始まった。
「今はこんな素敵な場所があるのね、みーちゃんもお年頃だし、いつか素敵な彼氏さんと行くのかしらね」
私はそっと目を逸らした。
「私たちも一度は行ってみたかったですね」
曽祖母が仏壇に飾られた遺影に言った。
遺影には軍服を着た厳つい顔をした男性が写っている。
「ひいおじいちゃんってデートスポット行くような人なの?」
「私がお願いしたらどこへでも行ってくれる人よ」
その言った曽祖母は恋する乙女のようだった。
星空
恥の多いとまでは言わないが、じゃあ人に褒められるような人生を歩んで来たかと聞かれたらそんな事はなく、ほとんど家出のような状態で私は生まれ育った故郷を飛び出した。
あれからもう何年経ったのだろう。
どうやって住所を調べたのか、私が暮らすアパートの郵便受けに母からの手紙が入っていた。
手紙には祖母が亡くなった事、葬儀などはもう終わらせた事、弟が結婚して孫が生まれたのを機に実家を二世帯にしたので私の帰る場所はもう無いとの事が遠回しの嫌味と共に書かれていた。
「そっか、おばあちゃん、死んじゃったんだ」
優秀で可愛い弟よりも、問題ばかり起こす可愛くない私を優先して可愛がる祖母は母に嫌われていた。
祖母はちゃんと供養してもらえただろうか。
その日の夜はいつもより眠れなかった。
缶ビールを片手にベランダに出た。
見上げた夜空に星は何処にも見当たらなかった。
「人はね、死んだら星になって子孫たちを見守るのよ」
昔、祖母が星空を指差してそう言っていたのを思い出した。
幼い頃は見えていた満天の星が見えなくなったのは、都会で暮らしているからか、歳をとって視力が落ちたからか、それとも、ろくでなしの私にご先祖様たちが愛想を尽かしてしまったからか。
緩くなったビールを一気に飲み干して部屋の中へ戻る。
真上に一つの星が輝いていたのに私は気づかなかった。