熱が出る。ちょっと嬉しい。
大人になると、一人で立たなくてはならないから。頑張ることが当たり前で、その上で成果を出さないと誰も認めてくれない。褒めてなんて、当然くれない。優しく頭を撫でて微笑んでくれる。そうして容易く得られた体温が、まるで幻のように遠くなる。
だからだろう。この特権が、たまらなく嬉しいのだ。
眠りから覚めた顔を、心配そうに覗き込む。そうして額に差し伸べられる手のひら。いつもより優しく、気遣うような愛情。
あの頃は得られた、けれど今はもう、遠ざかってしまったすべてが、今だけは全部わたしのもの。
不安そうな顔をするあなたに、こんなこと言ったら呆れられてしまいそう。だから、この思いは内緒。
明日になったら、きっと全てが元通り。それまでは、あたたかな愛に甘えていよう。
【風邪】
落ちる、落ちる、落ちていく。
重力が私を包み込んで、勢いのまま引き摺り落とす。
抗うこともできずただ、加速する空気に肌を切られて、果ての見えぬ世界の底へと吸い込まれていく。
はじめは、やがて来たる終焉を恐れた。けれど、落ちるばかり。いつまで経っても果ては来ない。
次第に落ちていることが当たり前になって、刃のような風の音、凍える寒さに慣れていく。逆さまの世界が、私の生きる世界に変わっていく。
ああ、落ちる前。私はどうやって生きてきたんだっけ?
考えてももう、思い出せない。どのくらい落ちているのか、どのくらい時が経ったのか、全てが溶けて曖昧になっていく。
落ちる、落ちる、落ちていく。
果てへの恐怖はもうない。ただ、終わりの来ない永劫の落下が、まるで罰のように退屈だった。
【逆さま】
道端に咲いた白い花。静かに佇む一輪にそっと祈りを託す。
スキ、キライ、スキ、キライ……
呟いては摘み取って、花弁がはらはらと舞い落ちる。
一枚、二枚、重ねていくたび。心は期待と不安に躍る。
占うのは君の心。素直になれない恋の行方。
どうかお願い。わたしが君に抱く心。同じものを君も抱いていてほしい。
すれ違った瞬間、目が合ったのは気のせいなんかじゃなかったと。そう思わせてほしい。
残す花弁はあとわずか。寂しげな筒状花と目が合って、心がざわめく。
もし、最後に残るの望んだ答えでなかったら。そんな予感に指が止まる。怖い。けれど、後には引けない。
目を閉じて、深く息を吸う。
ゆっくりと吐いて、また向き合う。
大丈夫。信じてる。
きっとこの恋は未来に繋がっている。
スキ、キライ、スキ、キライ……
ひらり、最後の花弁のこたえは――。
【好き嫌い】
舞い落ちる花びら。笑顔。喝采に、祝福。
柔らかな日差しにも愛されて、二人は今日門出を迎える。
参列客に紛れるようにして、私は拍手を送っていた。
大切な友人。心から幸せそうな、満ち足りた表情。ふにゃりとはにかむようなその笑みに心をくすぐられて、胸の中に愛しさが満ちる。
おめでとう。小さくつぶやく。素敵な人に出会えて良かった。
その幸せが永遠のものであることを、心から祈る。
この気持ちに嘘はない。あなたが幸せなら、私だって嬉しい。
だから、そう。秘めておく。
あなたに伝えたくて、ついに伝えられなかった言葉があったことを。
あなたの幸せを願うから。
私は静かに、秘密を抱える。
【誰にも言えない秘密】
ふと思う。
昨日は過ぎ去るものとして別れを告げられる。
明日は来たるものとして迎え入れられる。
では、今日とは一体なんだろう。
人間は今、この瞬間の連続を体感して生きる。
今は一瞬で過去になり、感じられる今はつい先ほどまで未来だったものだ。そう思うこの瞬間にも、未来は今に、今は過去に移り変わっていく。"今"を捉えることはとても難しい。
けれど、"今日"となれば話は違うのではないか。
今日とは24時間。午前0時から次の午前0時を向かえるまでの間。はっきりとした区切りを持っている。
掴みどころのない"今"と違って、日付が変わるまでは今日。そんなふうに"今日"の中にいる自分をはっきりと認識できる。
ならば"今"というものにも時間としての区切りを持たせたらどうだろうか。今が今であると意識しはじめてから1分間。……それでは少し長すぎるので、1秒ではどうだろう。
だがしかし。果たして、1秒という短い時間の中で、「今から今を認識しよう!」という意識を持てるだろうか。そうしようと思った時には、すでに1秒後の世界に自分はいるのではないか。そうなるとやはり、“今"を捉えているとは言えないのではないか……。
などとごちゃごちゃ、考えていたら頭がこんがらがって。何が何だかさっぱりだ。
僕の思考を覗き見れる人がいたならば、こいつは何を訳のわからないことを考えているのだと失笑していることだろう。
まあ、なんにせよ。今というものがあるのだから今日があり、昨日があり、明日がある。今を繋いで生きる。そうすることしかできないのだ。人間は。
くだらない思考に費やしたこの時間も、時計の針が12時を過ぎれば昨日のものになる。それよりも早く、布団の中で横たわった僕の意識は微睡に落ちていきそうだ。
眠って起きれば、今日は昨日に。明日が今日に。バトンを受け渡すように、"今日"が移り変わっていく。
明日やってくる今日は、昨日になる今日とはどんなふうに変わっていくのだろう。なんとなく、楽しみだ。
どうでもいいことを考えた時間は無意味ではないようだ。明日はいつもより"今日"を丁寧に過ごせそうな気がした。
【昨日へのさよなら、明日との出会い】